聞き屋のたぬ吉

矛盾の総和が人生だ

【綿矢りさ】対極の同性愛「生のみ生のままで」

僕は書評が苦手だ。書評が苦手というよりも、何かを評するという行為そのものが苦手だ。それは要点をうまくまとめ上げ、かつ読み手にその対象に興味を持ってもらえるよう誘導するのが極端に下手ということでもある。

 

そもそも文章を書くこと自体嫌いじゃないが得意ではない。その証拠に学生時代、国語の成績が飛び抜けてよかったわけでもなければ、読書感想文などのコンクールで賞をとったというのでもない。自分は文章が得意なのだと勘違いできるほど誰かに褒められた経験がないのである。ゆえに、何を書いていても自信が持てないのだ。

 

ただ、本を読まないのに書く文章だけが突出してうまい、なんてことは絶対に有り得ないので、研鑽を積む意味でも日々の読書は欠かせない。自信がないからこそ他人の、とくにプロが書いた文章に積極的に目を通すのである。書くべきことと書くべきでないことの別を、読書という体験から感覚的に学びとろうとしているのだろう。

 

 

ちょっと前の話になるけど、「あなたのブログは有料記事として読んでもらえるんじゃないか。noteなどで書いてみてはどうか」という、身にあまるような感想をメールしてくれた人がいた。舞い上がって自室でひとり小躍りしてしまったが、もしもそう感じる人が複数いるのだとすれば、それは僕の内側から発生する「誰かに何かを伝えたくなったときの熱量」が他の人よりもほんの少しだけ強い、ということなのかもしれない。

 

しかし、文章でお金がとれると言われても、どういうものをどれくらい書いて、それがいくらで売れるのか──自分では見当もつかない。何ならこちらがお金を払って読んでもらうくらいの気でいたものだから、そういう意見は大変斬新でありがたかったのだけど、この先ブログを有料とすることは絶対にないだろうと思う。

 

もしかすると、僕はセルフプロデュース能力とやらが著しく低いのかもしれない。というか理由はよく分からないけれど、昔から〝Web発〟みたいなのがとにかく苦手なのだ。これについては深く考察したことがなく、今後もするつもりはない。発信のやり方次第でいくらでも有名になれる世界とあって、僕のような「誰かに読んでさえもらえればそれでいい」という考えは、マネタイズの側面からも非常にもったいなく映るのだろう。

 

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前置きが長くなってしまった。 

 

苦手と言いつつ、それでも感想を書かずにいられなかったのは、綿矢りさの「生のみ生のままで」だ。

 

生のみ生のままで 下

生のみ生のままで 下

 

 

 

正直、僕はこれまで綿矢りさの小説には何度も泣かされてきた。「生のみ生のままで」も当然そのうちのひとつで、このお話は主人公の逢衣とそのパートナー彩夏の同性同士の純愛を描いた、ド直球の恋愛小説になっている。

 

 

・あらすじ(Kindle版より)

「私たちは、友達じゃない」25歳、夏。恋人と出かけたリゾートで、逢衣(あい)は彼の幼なじみと、その彼女・彩夏(さいか)に出逢う。芸能活動をしているという彩夏は、美しい顔に不遜な態度で、不躾な視線を寄越すばかりだったが、四人で行動するうちに打ち解けてゆく。東京へ帰った後、逢衣は彩夏と急速に親しくなった。やがて恋人との間に結婚の話が出始めるが、ある日とつぜん彩夏から唇を奪われ、「最初からずっと好きだった」と告白される。彼女の肌が、吐息が、唇が、舌が、強烈な引力をもって私を誘う──。

 

 

印象に残ったシーンをいくつか挙げてみるが、少々のネタバレを含むため、すでにこの本を読む予定があって、かつ絶対に展開を知りたくないという人はここでページを閉じることをおすすめする。

 

 

逢衣にはもともと颯という恋人がいて、結婚目前だった。ノンケとして普通に生きていた彼女だったが、ある日リゾート地で知り合った彩夏から告白されると、それまでの穏やかな日常は一変する。

 

「違う。男も女も関係ない。逢衣だから好き。ただ存在してるだけで、逢衣は私の特別な人になっちゃったの。逢衣に会うまで女の人なんてむしろ嫌いなくらいだったよ、どんな魅力的な女の子でもライバルとしか思えなかったし女友達もほとんどいない。でも逢衣だけは性別を超えて、特別の格別の存在として私の目に入ってきた」

 

このあたりはノンケの綿矢りさだからこそ思いつく展開なのだと推測する。もしくはいわゆるパンセクシャルという、年齢性別関係なく誰でも恋愛対象になりうる人物を描こうとしたのかもしれない。

 

彩夏の突然の告白に、逢衣は心の動揺を隠せない。

 

 一目惚れというやつなのかもしれない。でも、少しくらいは相手を選ぶべきでは? ひたすら困惑だけが薄黒い雲になって心を覆う。

「あのさ、はっきり言うけど、私は女の人は好きにはなれないよ」
「女の人を好きになれなくてもいいよ。私さえ好きになってくれれば」

 

 私は思わず彼女の額をこづいたが、二の句が継げない。性別は関係ないって簡単に言うけど、誰かを見たとき一番最初に登場する馬鹿でかいフィルターを、度外視するなんてできるのだろうか。女の友達として心を許しきっていたあのタイミングでダイレクトに想いを打ち明けられて、心臓を直接掴まれたように動揺し続けている。ずっと素で接してきて、今さらバリアも虚勢も張ることができない。

 

彼女の中でこの「馬鹿でかいフィルター」は次第に外れていくことになるのだけど、この辺りの葛藤がやけにリアルに響くのは、僕自身が純粋にノンケというマジョリティ側の気持ちを知らないからかもしれない。

 

紆余曲折あり、やがて正式に付き合うことになるのだが、ある出来事がきっかけで二人は長い間離ればなれになってしまう。

 

僕が号泣したのは、会えなくなってから数年後、逢衣が彩夏に書いた一通の手紙だった。ここではあえて内容は省略する。

 

そしてようやく再会すると、冷凍保存されていた二人の愛は時間をかけてゆっくりと解凍されていく。一番印象に残ったのは下巻の後半、芸能人である彩夏が「いっそのこと、私たちの関係を世間に公表するっていうのはどう?」と逢衣に提案するシーンだった。

 

「今の時代だもん、変に冷やかす人たちはもちろんいるだろうけど、普通に受け止めてくれる人や応援してくれる人もたくさん出てくると思う。私たちが公表することで他の同じようなカップルが勇気づけられるかもしれないし。

(中略)

 色んなことを言う人たちがいるかもしれないけど、理解のある人たちを見つけて、その人たちと付き合っていけば、ちゃんとこの世界でも息を吸えるよ」

 

理解とは何だろうか。分かったふりをしてみることだろうか。それとも僕たちにとって都合のいい振る舞いをするということだろうか。僕はマジョリティ側の人間じゃないから、この理解という言葉の意味を曖昧にしか「理解」できない。

 

彩夏の提案に対し、逢衣は決して首を縦に振ろうとはしなかった。

 

「私は友達だと思われたままでいい。周りにどんな関係と思われていても気にしない。それより安全な場所でずっと一緒にいられることのほうがよっぽど大事」

 私たちは世間からのどんな反応にも立ち向かえるかもしれない、でもできるからと言って私はあえてそれをしたいとは思わない。私は私たちがどんなカテゴリに分類されるかさえも、知りたくはなかった。人生は一度きりだ、誰をどんな風に愛して来たかだけを重要視して生きていきたい。

 

 何らかの権利を獲得するため行動を起こすつもりもない。アクションを起こす人たちを尊敬してはいたけど、たとえばもうこれ以上誰にも翻弄されたくないという強い思いがパートナーとして公に認められる可能性の芽を潰してしまったとしても、それも覚悟していた。

(中略)

 こそこそしている、卑怯だと言われてもいい。もう私はこれ以上私たちの愛を世間の激しい雨風に晒したくなかった。いくら相手を愛していても、愛は繊細で脆い。たくさんの試練に耐えて磨かれるのを目指すより、私は彩夏との愛をこれ以上ないほど大切にして、ゆっくり育みたい。

 

「私は私たちがどんなカテゴリに分類されるかさえも、知りたくはなかった」という台詞がとくに胸に刺さった。小説家としての矜持なのだろう、物語中その類いの言葉は徹底して伏せられていて、それは書かないことでしか表現できないものだった。

 

書かれないから、想像する。想像するから、優しくなれる。綿矢りさは、そういう読者との駆け引きが本当に上手な作家だと思う。

 

結局公表はせずに、二人はひっそりと愛を誓い合う。そのシーンで僕はもう一度、目の前が霞んで見えなくなるくらい号泣した。

 

「逢衣、結婚しよう」

 彼女の言葉が身体の中心の深い場所まで落ちて底へぶつかると、これ以上ないほどに切ない音色が反響した。心の内膜が剥がれるように涙がこぼれた。これ以上ない言葉のはずなのに何故だろう、この世で一番切ない気持ちになる。彩夏もまた穏やかな微笑みを浮かべながら、薄く涙の張った瞳で私を見つめている。

「私たちにとっての結婚て何?」

「誓うこと。一生寄り添い愛し合うって神様の前で宣言すること」

 

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一般的に男は価値観を、女は時間を共有したがる生き物だという。男同士は会わなくても意外と平気だったりするから、実際に相手が目の前にいるというその事実が、本当は奇跡みたいに価値のあることなのだと小説を読んで思い知った。そういう意味では女性同士という僕らと対極の同性愛にあって、この「会えない」という状況はものすごい試練だったと思う。久しぶりに心が震えた良作だった。

 

マイノリティの「理解してほしい」と「理解させたい」が混濁し、明確な違いを持たなくなった昨今、各々の生きづらさという主観が寄り集まって数になると「割を食っている」という共感は連帯して膨張し、もはやどういう状況が生きやすいと言えるのか誰にも説明できなくなった。あらゆる人々の本音が可視化されたことで、ハンデを負った側の「誰かのせいにしたい」という気持ちがより強まってしまったようにも思う。

 

そういう時代において、この小説が書かれた意味は何だろう、と、読み終えてから漠然と考えている。たぶん簡単に答えは出ないけれど、僕はこの先もずっと、この問いを考え続けていくだろう。

 

「彩夏の名前すら人前で呟けない人生でも、私は毎日を一緒に過ごせれば、これ以上ないほど幸福だよ。彩夏と一緒にいられたら、私にはどんな場所も日向だよ」

綿矢りさ「生のみ生のままで」2019年)