聞き屋のたぬ吉

矛盾の総和が人生だ

ヘルメットを、かぶせてあげよう

昨日の中央線下り、ほぼ終電に近い車内で、乗客同士のトラブルが目の前で始まった。ガラの悪い若い男ふたり(たぶん少し酔っている)に、眼鏡にマスクのまじめそうな男の子が執拗に絡まれるという構図。ふたりと言っても騒いでいるのは片方だけで、もう片方はキレている男の子をうしろからおさえて止めようとしていた。ただ、止めてはいるが本気ではなく、なだめすかそうとして失敗してしまっているみたいだった。

 

会話は車両がきしむ音に紛れて切れ切れで、その全部を拾うことはできなかったが、男の言いたいことを要約すると「お前、俺のこと笑っただろう!」というような内容らしかった。

 

僕と彼らはそれぞれ4ドアの車両の、7人がけのシートひとつ分くらい離れたところに立っていた。凝視していると、キレている男が眼鏡君の髪の毛を掴み、その頭を勢いよく手すりに打ちつけ始めた。ゴゥン、ゴゥン、と、金属と頭蓋のぶつかる音が車内に響き渡る。周囲の人たちはその状況を固唾を飲んで見守っている。

 

ややあって遠くのほうから「警察呼ぶぞォ!」という女性の叫び声が聞こえた。男は「あぁン!?」と反応するがすぐに向き直り、ふたたび眼鏡君に掴みかかる。僕のななめ後ろの男が聞こえよがしに「外でやれよォ」とあさっての方向を見ながら言った。注意をする、というのではない、嫌味を多分に含んだ、いわゆる〝ヤジ〟を飛ばした格好だった。

 

「あぁ!? 今言ったやつ誰だよ!! 出てこいやぁー!!」

 

ヤジを飛ばした男は当然のように無視している。うるさくて迷惑をしているが、直接関わりたくない、でも、何かひとこと言わずにいられない、そういう心理状況だったのだろう。

 

絡んでいる男は「男だったらやり返せよ! 殴って見ろよ!」と無抵抗な眼鏡君を煽る。眼鏡君はマスクをしているから、表情の全てを見ることは出来ないけれど、目もとが薄く、薄く、嗤っている。その瞳は怒りと軽蔑に燃えている。何か反論もしているが、声が小さくてここからでは聞き取れない。取り乱すまいと必死なのか、妙に冷静な様子だった。

 

膠着状態は続く。誰かが緊急停止ボタンを押したのか、車両が途中で急停車した。車内アナウンスが流れるがうまく聞き取れない。僕はふたりから目が離せない。どうかこれ以上は、と、願うことしかできず、ふたたび車両が動き出す頃にはどうしようもなく心臓が早鐘を打っていた。

 

最寄り駅に着くと、ホームには制服を着た人たちが何人か待機していて、ドアが開いて出てきた瞬間ふたりを止めにかかっていた。ヤジを飛ばした男はその場を素通りし、改札口にいる駅員に向かって「あいつ逮捕してくれよ!」と訴えていた。

 

 

僕のブログを長く読んでいる人ならだいたい予想はつくと思うけれど、僕は終始、ガラの悪い男のほうに感情移入していた。怒りの手前の感情は悲しみである。男の心情を言語化するならこうだろう。「俺は嗤われて悲しいんだ。正確には、君が俺のことを嗤ったかどうかわからないんだけれど、嗤われたような気がして悲しいんだ。その目をやめてくれよ、頼むから、その『目』をやめてくれよ!!」

 

(本当はこんなことが言いたいんじゃない、こんなことがしたいんじゃないんだ、でも………!!)

 

その状況に心当たりがありすぎて、僕はいっそ彼を黙って抱きしめてあげたい衝動に駆られた。たぶんそんなことをしたら何をされるか分からない。と、いうのは、興奮した状態では、抱きしめられることと止めにかかる意図で動きをおさえつけられることの区別がつかない可能性があるからで、彼を信用していない、という意味ではない。目が合えば、きっと大丈夫だろう。僕が後者を意図していないことをきっと、分かってもらえるだろう。

 

 

ネットと現実の両方で「あの人に関わってはいけない」というレッテルを貼られることに慣れすぎた僕は、人とぶつかってしまう性格をどうにかしたり、積極的に解決しにいくというのではなく、フィクションの世界に逃げ込んてしまった。最近は小説の書き方を勉強するために某スクールに通っていて、昨夜も合評会から帰ってくる途中でこのような状況に出くわしたのだった。

 

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電車の話とは関係ないけれど、僕には去年からずっと心の中で謝りたいなぁと思っている人がいる。直接連絡してみようかなって考えたことも何度かあったけど、そんなときは高山羽根子の小説「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」に最後の最後で出てくる文章が頭の中によみがえってくる。

 

「どうしてあんななったのかわかんない。わかんないよ」

「こんな追いかけられて、追いつかれて、むりやり謝られても、困る」

 私は謝られるのが怖くて逃げてたんだ、と考える。こんなきれいなニシダが、こんな虫まみれで、美しくもない顔と背中と、かつて丸かったお腹を持った、みじめで、どうしようもない私なんかに謝りたくて走ってきているのに。

 そんな状態から、私はどうやって逃げおおせるなんて思ったんだろう。

 

 もうそうやってたぶんニシダはずっとこの後ごめんと言いつづけるような気がする。謝ってすっきりされるために追いかけられる、こっちの身にもなってみろ、と思う。

「謝ってすっきりされるために追いかけられる、こっちの身にもなってみろ」

 

相手に要求されていない謝罪は単なるエゴである。所詮は以前と中身の何も変わっていない愚かな自分が「許された」という実感を得たいがための感情の押しつけであり、この通り私は謝りましたが、許すか許さないか、あとはあなたの問題です、さぁ、どうしますか? と、その実相手の優しさや器の大きさを試しにかかっているだけなのかもしれない。

 

だから、僕は相手を苦しめることのないように、直接謝らない謝り方を必死で模索する。もしも小説でそれができたら、とも思うけれど、変に湿っぽくなっては意味がないんじゃないかとも思う。昨夜は眠る直前、そんなことをぐるぐると考えていた。

 

そうしたら、夢の中に彼が出てきた。

 

彼は「こっちこそ素っ気なくしてごめん」みたいなことを言ってくれて、僕はむせび泣く。彼の大事にしていたものをかき回すだけかき回して、間接的に、無遠慮に言いたい放題言ってしまった僕には、きっと謝る権利すらない。それなのに、こんな都合のいいことを彼に夢の中で言わせている自分に無性に腹が立った。いい加減にしろよ自分、と思った。

 

それでいて、可能性はとても低いだろうけれど、もしかすると今でもときどきこのブログを読んでくれているんじゃないか、と、心のどこかで期待していたりもする。ただ、もしこの記事を読んでくれたとしても、具体的なことは一切書いてないので、彼が自分自身のことを指していると気づくかどうかは正直分からない。それでもどうしても書かずにはいられなかった。そのくらい、夢の中でも相変わらず穏やかで、かっこよかった。

 

 

矛盾の総和が人生なわけで、だからこそ彼が今後どんなふうに変化しようとまったく彼の自由なのだけど、どこかで隠れて泣いているようなことがあったらイヤだなぁ、と思う。いろいろがんばっているけれど、思ったほどみんなは僕のこと見てくれないなぁ、関心がないのかなぁ、と、さびしさで落ち込むことがあるとしたら、きっと僕も同じだけ悲しくなってしまうから。

 

そういえばあいみょんがある楽曲の中で「今はまだ伝えられないけど、最悪でも、僕だけはここにいるから」って歌っていた。僕はたぶん一生伝えることはできそうにないけれど、遠くから彼に向けて、ずっとずっとそんな気持ちを抱きながら、これからの日々を過ごしていくのだと思う。

 

電車で騒いでいたあの男にも、いつか相手に暴力を振るったことを謝りたいと思うときが来るだろう。そのときはどうか、相手を必要以上に追いかけてしまわぬよう願うばかりだ。

 

 

 そうやって私も、おばあちゃんやお母さんと同じように、手ごたえ無く殺した小さい虫を、なかったことにしてきたのかもしれない。ひょっとするとお母さんももうすでに、ちょっとした不都合で命がどうこうという問題は起こらないと考える、小さい虫に不快を覚えることもない、背中のきれいな人になってしまっているのかもしれない。

 そう考えたすぐあと、ただ、おばあちゃんやお母さんは、今の私が見えていないいろんなものが見えているかもしれないな、とも思う。私だって、今、自分のまわりにこの虫とは別のなにかがいっぱいあるのに気づかないで、生きているのかもしれない。

 私は心の中で、目の前で泣きじゃくっているニシダにヘルメットをかぶせてあげよう。

高山羽根子「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」2019年)