聞き屋のたぬ吉

矛盾の総和が人生だ

【今村夏子】「こちらあみ子」の世界観と、認識しない力強さ

八月の十日を過ぎたあたりから、日中の空気がガラリと変わった。正確には季節の変わり目と言えるくらい、温度とか湿度が一気に変化した。こんなに早く秋の気配を感じたのははじめてかもしれない。

 

例年にくらべると、自分にとって今年の夏は出かける頻度が高く、花火大会とか、バーベキューとか、わりと夏っぽいイベントにも参加することができた。大阪にも遊びに行ったし、「天気の子」も見に行った。映画は想像してた内容とちょっと違ったけど、それなりに面白い作品だった。

 

僕がいま書いている小説の題材ということもあり、タピオカミルクティーもたくさん飲んだw

 

どのお店のタピオカもそこまでの違いはなかったけど、どれも総じて美味しいと思った。味そのもの、というよりも、太めのストローから黒い大量の粒々を、子供がふざけているみたいにして吸い上げるあの独特の食感が楽しかった。流行っている理由がなんとなくわかる気がした。

 

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本もたくさん読んだ。その中で、というかここ数年の読書の中で、おそらくダントツで一番なんじゃないかってぐらいの名作と出会ってしまった。それが今村夏子の「こちらあみ子」だ。

 

 

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 

 

今村さんは先日「むらさきのスカートの女」で芥川賞を受賞して、一気に注目を集めた気鋭の作家だ。僕は名前だけはずいぶん前から知っていたけど、作品自体はつい最近まで読んだことがなかった。

 

芥川賞の候補になるよりも少し前、小説トリッパーの春号で「むらさきの~」を読んで以来、ファンになってしまった。その後、図書館で「こちらあみ子」を借りて読んだら本気で泣いてしまって、これはぜったいに手もとに置いておきたいと思い、書店で文庫版を購入した。殿堂入りの本がまた一冊増えて、とても嬉しかった。

 

もともとは「あたらしい娘」というタイトルで太宰治賞を受賞していて、上梓するタイミングで「こちらあみ子」へ改題したのだという。それが三島由紀夫賞にも選ばれているのだから、ある意味で怪物的な作品と言えなくもないだろう。

 

 

読み進めていくうちに、終盤のほうでどちらのタイトルの意味も分かるシーンが出てくるのだけど、自分はその台詞の部分に差し掛かったとき、わぁっと泣いてしまった。

 

「応答せよ、応答せよ、こちらあみ子」

誰からもどこからも応答はない。

「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子。こちらあみ子。応答せよ」何度呼びかけても応答はない。

 

生まれてくるはずだった「弟」と遊ぶために買ってもらったトランシーバーに、あみ子は何度も呼びかけるのだけど、壊れていて、誰からも応答がない。それでも話がしたくて懸命にしゃべり続けるその姿に、どうしようもなく胸を打たれた。

 

トランシーバーが熱かった。手は汗ばんでいた。六畳間の空間がクラスメイトたちの笑い声で満たされた。どういうことかと思ったら、そのときあみ子は泣いていたのだ。あみ子が泣くとみんな笑った。泣きかたがへんじゃと言って、指を差してげらげら笑った。でもそんなにおもしろいだろうか。自分ではわからない。

 

この物語からは終始、主人公のあみ子が世界とぶつかる音が聞こえてくる。失言が多かったり、突拍子もない行動をとったりしては周囲の人間を驚かせ、呆れさせる。そのたびに世界とあみ子の距離はぐんぐん開いていく。学校にも行かなくなり、ついには好きだった男の子に殴られて前歯まで失ってしまう。でも、歯医者には行かない。舌で歯がなくなった部分をなぞるのが楽しいからだ。

 

あみ子は自分と世界の距離を自覚しない。痛みを痛みとして受け取らないし、悲しみを悲しみとして認識しない。だから、そのズレを誰のせいにもしようとしない。なんか違うな、おかしいな、という感覚はあるにはあるが、本人は世の中へ適応できないことに悩んだり苦しんだりしない。

 

周囲とあみ子は存在している世界の位置がまったく違っている。だから、なにが「痛いこと」で、なにが「悲しいこと」なのか、その基準がそもそも周囲と一致しない。あみ子にしか分からないそれらの感覚は、作者が徹底的に「言語化しない」ことによって、読者側の感覚世界の、言葉では到達できない一番深いところに大切な何かを届けてくる。

 

あみ子の無自覚さには、いわゆる「無神経」とは違う次元の力強さがあった。それ故に、あみ子が動き回ることでエントロピーは増大し、周囲はひたすら混乱する。人と人とが同じ世界を生きることはこんなにも残酷なことなのだという虚しさがひしひしと伝わってくる。

 

あみ子も周囲も、次第に傷が増えていく。周囲はそれを痛いと感じ、声を上げ、あみ子を自分とは相容れない異質な人間と認識し、遠ざける。一方であみ子は飄々としている。あみ子は誰もが子供のころに持っていたであろう、あの独特の感性の世界でずっと呼吸をしているのだ。

 

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僕が小学生のころ、ミニ四駆という自分でパーツを組み立てて作る車のおもちゃがあった。男の子のあいだで流行っていて、それをコース上に走らせて、誰のものが早くゴールするかを競って遊んでいた。週末になると駅前のヨーカドーのイベントスペースにはミニ四駆専用の大きなコースが設置され、たくさんの子供たちが自分で作った車を持ち寄っては交代でレースを楽しんでいた。

 


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(九〇年代半ばに人気を博した漫画・レッツ&ゴー)

 

ミニ四駆には、ひとつだけ暗黙の了解があった。それは「中学校に上がるタイミングでミニ四駆は卒業するもの」という共通の感覚だった。だから、どのイベントスペースに行っても、ほとんど小学生以外は集まっていなかった。

 

しかし、僕がよく参加していた場所に一人だけ、背の高い、異常にニコニコした表情の男の子がまぎれていたのをよく覚えている。そのとき彼はすでに中学生だった。彼は小学校を卒業してからもミニ四駆を走らせ続けていたので、そのせいで周囲からはちょっと白い目で見られていた。僕も当時、そういう色眼鏡で彼のことを見てしまっていた。

 

でも、今になってみると、一体彼の何がいけなかったんだろう、と思う。

 

成長するにしたがって、こうすべき、ああすべき、という世界のルールがどんどん増えていき、社会に出るころにはがんじがらめになっているが、それをみんなが普通のこと(大人)として認識している。それが常識であり現実であるからだ。36時間を1日として生きる、みたいなことは、もはやフィクションの中でしか許されない戯言だった。

 

でも、ときどきそういった大人の、くだらない世界に染まらずに成長してしまう人たちがいる。それが例の男の子であり、あみ子なのだと思う。

 

彼らは殺人的に純粋な存在であるが故に、ときに周囲を圧倒する。徹底的に、世界から逸脱する。だからふつうの人たちは混乱し、「違いを分からせる」ために攻撃したり、いじめたりする。彼らを「まとも」に矯正しようと躍起になる。

 

ふつうの人たちは不安なのだ。世界の秩序を乱されることが。だから排除したくなる。彼らが縦横無尽に動き回ることで、自分たちが信じている世界を全力で否定されるように感じ、それが得も言われぬ恐怖心へと変わってしまうのだ。

 

どちらが正しいといったことはない。ただ、どこまで行っても永遠に交わることがない。平行線。みんなが生きやすい、という世界を作ることは、どだい無理な話なのである。

 

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新しい言葉が世の中にできるたび、僕らはほんのちょっとだけ何かを期待してしまう。自分の生きづらさのすべてを説明してくれるんじゃないかと、その言葉に向かって希望を託してしまう。どこかその言葉に嘘っぽさを感じながらも、自分にとって都合のいい部分だけをすくい取ろうともがいてしまう。けれど、実際には、すべてがその言葉によって説明されるわけではない。

 

仮に自分が救われたとして、たいていの場合、そのしわ寄せが誰に行くのか、というところまでは想像しない。もっともらしい理由がついて回るから、誰もまともに突っ込めない。突っ込もうとすると多様性という曖昧な言葉を、鬼の首を取ったように振りかざして周囲を黙らせてしまったりする。

 

以前読んだ田中慎弥の「冷たい水の羊」という小説でも、明らかにいじめられているにも関わらず、主人公はそれを「いじめ」と認識しないことでいじめを成立させなかった。作者はその葛藤を「つらい」という言葉を使わずに表現することで、読者へ向かって大切な何かを訴えていた。まっすぐな主張は結局意味がない、というかダサい、ということを、主人公は自覚していた。そこに孤独を背負うから、僕には彼が誰よりも強い存在に見えた。

 

そうした小説を読んで思ったのは、僕もその主人公やあみ子のような力強い存在に向かっていきたい、ということだった。

 

 

図書準備室 (新潮文庫)

図書準備室 (新潮文庫)

 

 

 

泣かないことは難しい。だから、僕はせめて「つらい」って言葉を簡単に口に出すのはやめようと思った。「つらい」とか「傷ついた」などと言うのはたやすい。だけど自分はそうした負の感情のひとつひとつを、ほかの違う、もっとていねいな言葉へと変換していきたい。できれば小説という、小さな箱の中で。

 

そうした気の遠くなるような作業を積み重ねた先には、きっと今まで見たこともないような素晴らしい景色が、僕を待っている気がするのだ。

 

「教えてほしい」

 坊主頭はあみ子から目をそらさなかった。少しの沈黙のあと、ようやく「そりゃ」と口を開いた。そして固く引き締まった顔のままで、こう続けた。「そりゃ、おれだけのひみつじゃ」

 引き締まっているのに目だけ泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。

(今村夏子「こちらあみ子」2011年)

 

 


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(8月7日、狛江・多摩川花火大会にて)