聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

ずぶ濡れで、走っていけるか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今の時代は、皆が「生きていること」に対してあらゆる意味を持たせ、付加価値を与え過ぎるが故に生き辛い。そもそも生きるのに理由はいらないし、生きる意味など罪人であろうがなかろうがいつだって等しく後付けである。

 

 

しかしながら「凶悪犯なのだからさっさと殺してしまえ」というのは、いささか早計と言わざるを得ない。それは理由さえあれば人は人を殺す権利があると言う主張に他ならず、司法という笠を剥ぎ取れば、すなわち翻って、誰しも理由さえあれば殺し殺される運命なのだという自家撞着を起こすからだ。 

 

 

 

彼らの再犯から学ぶべきは「凶悪犯は服役しても更正しない」という手抜きの結論ではなく、身に付くのはその場限りの反省の技術だけという事実である。悲しいかな、懲役20年で得られるのは豊かな情操でも何でもなく、早々に出所するための単なる損得勘定なのである。疑うべきは罪人ではなく、現行の刑法や刑罰の仕組みそのもののように思う。

 

凶悪犯罪者こそ更生します (新潮新書)

凶悪犯罪者こそ更生します (新潮新書)

 

 

つまりは犯罪者に対して、ただひたすらに「反省」や「改心」を迫り、罰を与えるというシステム自体が間違っていると考えられないだろうか。彼らの更正が娑婆に出るための単なる「受験勉強」になっては、全くもって意味を成さない。そんなものはどうせすぐに忘れてしまうのだから。

 

よしんば死刑という報復が叶ったとて、被害者は戻ってこない。それで収束したように見えたとて、被害者遺族、及び社会全体を覆う正体不明の虚無感からはどうしたって逃れられない。もっとも加害者が真に必要とするのはアフェクションであり、根本的な解決は「許し」以外に存在しないように思う。

 

kawango.hatenablog.com

 

 

ただ、今の僕には氏の価値観を覆せるだけの文脈を持ち合わせていない。それに140文字の応酬でやり込めたとしても、結局片手落ちなのは変わらないため、以降は沈黙とした。

僕はまた繰り返してしまったのだ、現実世界での虚しい議論を。

 

 

犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。

(太宰治「斜陽」1947年)

 

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな。」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実態があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(太宰治人間失格」1948年)

 

何かの足しにもなれずに生きて    何にもなれずに消えていく

僕がいることを喜ぶ人が    どこかにいてほしい

石よ樹よ水よ    ささやかな者たちよ

僕と生きてくれ

繰り返す哀しみを    照らす灯をかざせ

君にも僕にも    すべての人にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ

名もなき君にも    名もなき僕にも

(中島みゆき「命の別名」1998年)

 

不健康な心が飢えて    悲劇をもっとと叫んでいる

大義名分が出来た他人が    やましさもなく断罪する

人殺しと誰かの不倫と    宗教と流行の店と

いじめと夜9時のドラマと    戦争とヒットチャートと

(amazarashi「つじつま合わせに生まれた僕等」2009年)

 

失くした何かの埋め合わせを    探してばかりいるけど

そうじゃなく    喪失も正解と言えるような

逆転劇を期待してる    そしてそれは決して不可能じゃない

途絶えた足跡も    旅路と呼べ

(amazarashi「命にふさわしい」2017年)

 

「止まない雨はない」「明けない夜はない」

とか言って明日に希望を託すのはやめた

土砂降りの雨の中    ずぶ濡れで走っていけるか?

今日も土砂降り

そういや    いつかもこんな雨だった

(amazarashi「雨男」2014年)

 

 

もっとしっかりと沈黙しよう。

僕の言葉の死に場所は、ここじゃない。

 

土砂降りの雨の中

ずぶ濡れで、走っていけるか