聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

【酷評】映画『未来のミライ』に抱く一抹の違和感

夏の暑さも手伝って、只今絶賛引きこもり中である。

暑さ云々以前に、今の生活環境では時間が腐るほどあるので、先週あたりまで家と図書館を往復するだけの日々が続いていた。本が大量に置いてある上に涼しくて、しかもすごく静かで快適とあって、僕にとっては楽園のような場所だった。

ただ、日がな一日無心で読書をしていても、インプット出来る総量には限界があることを知った。こうも連日貪るように活字に触れていると、まるで使いすぎたスマホ通信制限がかかるように、脳内の情報処理能力が急に下がることがあるのだ。文章のゲシュタルト崩壊とでも言えるだろうか。

 

近頃は文章の世界だけでなく、映画という映像表現の世界にも少しずつ興味を持ち始めている。それというのも、読書とは別の形で没頭できる何かを探すようになっていたのだ。

没頭できる何かと言っても、ただいたずらに時間を消費するものではなく、触れることで自分自身がアップデートされるようなものを望んでいた。そういう意味で映画は会話のネタとしても無難だし、内容の様々を分析しながらレビューを書くことも出来るから、僕のような人間には最適な娯楽なのかもしれない。

 

そんなわけで、昨日は細田守監督の最新作『未来のミライ』をレイトショーで観に行ってきた。


 

大前提として、僕は映画に関する知識をほとんど持ち合わせていない。それに、そもそも今まで映画を観るとき、監督が誰だとか、原作がどうだとか、そういったものを気にしたことが一切ない。だから『時をかける少女』も『サマーウォーズ』も『バケモノの子』も、いずれもスクリーンで観ているけれど、同じ監督の作品であるという視点には感心がなかった。

 

加えて映画を観る前は、極力余計な情報を入れないように意識している。そして観終わったあとも、その作品に対してある程度自分の見解がまとまるまでは他人のレビューなども覗かないようにしている。それゆえ、今回書く内容は完全に映画ド素人のひとりごとなので、その点はご容赦願いたい。


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結論から言うと、まったく面白くなかった。

彼の作品が好きな人には申し訳ないのだが、個人的に本作に関しては面白くないというより、何一つ印象に残らなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

 

映画というのは往々にして、作り手から観客に向けた『メッセージ』が必ずどこかに潜んでいたりするものである。しかしこの作品に関しては、劇中にそういったメッセージ性を垣間見ることはなかった。いや、もしかするとあったのかもしれないが、それが一体何なのか、僕にはさっぱり分からなかった。

 

例えば一昨年夏に公開された新海誠監督の『君の名は』も、個人的にはひどくメッセージ性のない内容であったと記憶している。ただ、あの作品には『音楽』や『映像美』といった、ストーリーと切り離した部分での評価対象が存在し、それなりに『映画を観た気分』に浸ることは可能であった。

 

それに対し、本作はどうだろうか。

残念ながら、僕にはそういった付加価値的なものすらも一切見出だすことが出来なかった。 

 

ここからは少々ネタバレになる。

主人公のくんちゃんが母親を求めて泣き叫んだり、過去にさかのぼって当時の家族と出会ったり、感情に揺さぶりをかけてくるシーンはいくつかあるにはあった。しかし、通常映画を観終わったあとに訪れるはずの独特の『余韻がまったくないのである。それどころか、何かこうモヤッとした一抹の違和感だけが残ってしまったのだ。

この違和感の正体は一体何なのだろうと、一人自室で考えを巡らせたところ、時間の経過と共にその理由がハッキリと浮かび上がってきた。

 

まず第一に、そもそもこの「未来のミライ」というタイトル自体が、映画の内容そのものとマッチしていないように感じた。実も蓋もないことを言っているのはもちろん承知である。

じゃあなぜそう思うのかと問われれば、「ボクは未来に出会った」という惹句も含め、『未来』というワードを強調する割には、肝心の『未来』の描写がほとんどないことが理由として挙げられるだろう。それに未来からやって来たミライちゃんは断続的に登場するけれど、終始一貫して彼女と共に冒険をしているわけではないし、どちらかと言えば『過去』にさかのぼるシーンが頻出するという点でも矛盾している。

 

さらに僕が評価できなかった理由として、作品のコンセプトが毎回ワンパターンというか、過去作の焼き直し感が否めないという点である。北野ブルーよろしく“細田ブルー”とでも言うのだろうか、いずれも青空と入道雲があり、主人公が子供で、過去や未来、異世界や仮想空間などをひたすら往来するといった内容ばかりなのだ。


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先ほど監督が伝えたいメッセージが分からないと綴ったが、実は半分嘘で、それが何となく『家族愛』とか『家族の絆』的なものであることは予測できた。その上で評価できない理由をもう一つ挙げるとすると、(完全にただの僻みかもしれないが)単純に彼らの生活水準が高すぎるということだった。むしろそれがこの物語の興を削ぐ一番の要因となって、“メッセージの受け取りを拒否”していたのだと思う。

 

30歳前後の夫婦に子供が二人いて、庭付き一戸建ての(恐らく)持ち家且つデザイナーズ物件でマイカーも所有。室内にはたくさんのおもちゃとそれで遊ぶためのスペースがあり、さらにはMacのノートPCや見たこともないようなカラフルなケーキなど、出てくるアイテムもいちいちおしゃれで生活感がまったくない。こんな家族が一体どこの白金にいるというのだろうか。

 

つまりは生活感がないことで、返って物語が非常にちゃちなものに見えてしまい、家族の愛だの絆だのと言ったメッセージにまったく集中することができなかったのである。80年代後半のバブル期ならいざ知らず、これが現代の平均的な家族像を描いているつもりなら、相当感覚のズレがあるように思う。

 

仮にそれらの要素を差し引いたとしても、個人的にこの作品が評価に値するとは言い難い。なぜなら『宿題』が何も残されていないからだ。

 

前にどこかの記事でも触れたけど、僕は映画でも音楽でも、各々の中にしか答えがないような、深いところで意味を考えさせられるような『問い』のあるものに惹かれる傾向にある。そしてその問いを『宿題』として心の中に持ち帰り、今まで築き上げてきた価値観と照らし合わせながら、ゆっくりと答え合わせが出来るような作品と出会いたいのだ。

 

未来のミライ』が僕に投げかけたのは、宿題として心に持ち帰るまでもなく、スクリーンの中で答え合わせが済んでしまう非常に優しい問いであった。

細田守監督の最新作というだけで飛びついてしまったことに、今さらながら少し後悔を覚えている。