聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

「後のものが先になり、先のものが後になるであろう」

僕が昔預けられていた児童擁護施設には、敷地内にキリスト教の小中学校が併設されていて、山の上にはプロテスタントの教会が建っていた。施設の職員のおよそ半数はクリスチャンで、毎週木曜の夜と日曜の午前中には施設内の子供と職員が全員集まり、教会で礼拝がおこなわれていた。


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礼拝では聖書を読み上げる時間があった。聖書のどの箇所を読み上げるのかは事前に決められていて、各部屋の子供たちが順番で担当するのだけど、中学校に上がって間もなくの頃、その朗読の当番が一度だけ自分に回ってきたことがあった。当日の礼拝で僕が担当したのは、マタイによる福音書の20章にある「ぶどう園の労働者」というお話だった。

 

 天の国は次のことに似ている。ある家の主人がぶどう園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。彼は一日一デナリの約束で、労働者をぶどう園に送った。九時ごろまた市場に行ってみると、何もせずに立っている人たちがいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう』と言った。そこでその人たちはぶどう園に行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。また五時ごろ出て行ってみると、他の人たちが立っていたので、『なぜ何もしないで、一日中ここに立っているのか』と言うと、彼らは、『だれも雇ってくれないからです』と答えた。そこで、主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園にいきなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に、『労働者たちを呼んで、最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい』と言った。そこで午後五時ごろの組の人たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。終わりに最初の組の人たちが来て、それより多くもらえるだろうと思っていたが、彼らも一デナリずつもらった。すると、主人に不平をもらして、『最後の組は一時間しか働かなかったのに、あなたは彼らを、一日じゅう労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じように扱われる』と言った。主人はそのうちの一人に答えて、『友よ、わたしはあなたに何も不正なことはしていない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。あなたの分を取って帰りなさい。わたしはこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ。わたしが自分のものを自分のしたいようにするのが、なぜいけないのか。それとも、わたしの気前のよさを、あなたはねたむのか』と言った。このように、後のものが先になり、先のものが後になるであろう

 

朝からぶどう園の主人に雇われた人は「1日1デナリ」という賃金契約を交わしていた。しかし、それ以降に主人が市場で声をかけた人々には「ふさわしい賃金を払う」とし、具体的な金額を明示しなかった。そして夕方5時ごろに声をかけた人々にいたっては、1時間ほどしか労働をしていないにも関わらず、最終的には朝から働いていた人々と同じ1デナリが支払われた。

 

ここでもっとも重要なのが、「最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい」という言葉だ。通常であれば、先にいた者から順に支払われ、労働時間に比例して、賃金も後に来た者ほど少なくなるはずである。しかしこのお話ではその順序がまったく逆になり、賃金も一律に支払われたため、先にいた者が納得せずに不平を漏らした格好だ。ちなみにここで言う「ぶどう園の主人」とは「神様」のことを指している。 

 

よく考えてみると、朝から労働契約を交わした人たちは、その日ないし翌日の生活は賃金により保証されている。それに対し、途中の時間から雇われた人たちは、その日の暮らしもどうなるか分からない状況で市場に来ていた。彼らは働く時間こそ短かったものの、その分「不安に晒されていた時間」は、朝から雇い入れてもらった人たちより当然長い。特に夕方の5時に雇われた人たちは、ほぼ絶望の中で立ちすくんでいたと言える。

 

つまり神様は、彼らの「絶望していた時間の長さ」を考慮して、後の者を先にしてくださったのだ。われわれの暮らす資本主義社会ではおよそありえない評価が、天の国では当然のこととしておこなわれるのである。

 

ちなみにキリスト教では死後の世界に関して「復活」や「永遠の命」という、仏教で言うところの輪廻転生とはまったく異なる概念が信じられている。これには生前に良い行いを積極的にしたかどうかということはあまり考慮されないし、早くから信仰していれば優遇されるといったものでもない。むしろ罪深い人ほど優先して救ってくださるという、独特の気前のよさを持ち合わせているのである。

 

さっき近所のスーパーで美味しそうな“ぶどう”を見かけたので、衝動的にこの話を書きたくなったのだった。