聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

自分の言葉を探す旅

今朝、AIR-J'氏と神原さんの以下の記事を立て続けに読ませていただいた。

 

airj15.hatenablog.com

 

mituteru66.hatenablog.com

 

自分もちょうど昨日こんなツイートをしたばかりで、二人と似たようなことを思っていたのだった。

 

 

 

 

この際なので、僕も忌憚なく書かせてもらう。

 

世の中には『普通』とか『常識』の枠内にしっかり自分の居場所を確保しておきながら、それでいて他人より変わっているとか、不幸な境遇なのだという具合に、自分を個性的にパッケージしたがる人種が存在する。しかし彼らは基本的に人から嫌われたり、周囲から浮いてしまうリスクを冒してまで何かを主張するような気概はまったく持ち合わせていない。

 

そうした人間が『ガチのアウトロー』とうっかりエンカウントするとどうなるか。すぐに対抗意識こそ発露しないものの、彼らなりのやり方で背中に小石を投げてくるという構図はもはやお決まりのパターンで、そうした“柔らかい衝突”はこれまでも何度か経験している。

 

そして不幸自慢では勝てないと踏むと、踵を返すように、今度は自身が『その他大勢』であることにアイデンティティを見出だそうと奮起するのである。要するに、それまで周囲に比べていささか変わり者だったり、厭世的なキャラクターを売りにしていたため、自分より強烈な個性を持つ人間にお株を奪われることが面白くないのだろう。その当て付けとして、保険をかけておいた『普通』にすり寄り、相手との対称性を全面に押し出すことで溜飲を下げようとするのである。

 

今となっては某氏が某ブロググループを教えてくれたのも、某ライングループが立ち上がったのも、もしかすると『人数を従えている』ことを自慢したかっただけなのではないか?とさえ思ってしまう。それはまるで「自分はこんなすごいコミュニティを有しているんだぞ」と主張するかのように。

 

*   *   *

 

僕にはもうすぐ付き合って5年になる相方がいる。アプリで知り合っているということもあり、お互いの友人関係を紹介するでもなく、客観的にはとても閉じた世界で関わっているように見えるかもしれない。それ故に、互いに興味をなくしたら終わってしまうという、非常に危なっかしい関係であるという事実はあえて否定しない。

 

でも、だから何だと言うのだろう。

 

そんな綱渡りのような関係であったとしても、現に僕らは4年と8ヶ月という長い時間を共に歩いてきた。彼が偶然僕のことを赤いアプリで見つけてくれて、メッセージをくれて、二人でボウリングに行って、その1週間後に告白されてから、丸5年が経とうとしている。お互いそれなりに依存し合って、承認し合って、どうにかここまでやって来れたのだ。それは彼にゲイ友達がほとんどいなかったり、ツイッターをしていなかったり、ほぼノンケ生活をしているということが僕の安心に繋がっている側面もあった。

 

しかし、それでもふとした瞬間にやってくる『孤独』とは、自分自身で折り合いをつけなければならない。そういうとき、リアルの世界に活路を見出だすか、非リアルの世界に活路を見出だすかは、その人の性格によって異なってくる。このような場合にやたら人数を集めないと行動を起こせなかったり、群れることで孤独の穴埋めをしようとする人間は、私生活が派手か地味かに関わらず、根っこの部分では『パリピ』体質なのだと思う。『文化系パリピ』がタチが悪いのは、渋谷あたりにいそうなウェーイ系を心底馬鹿にしながら、その実やっていることは彼らと大して変わらないという滑稽さにある。

 

例えばBUMP OF CHICKENRADWIMPSは何かにつけて比較されることが多い。しかし彼らの決定的な違いは『ガチのオタク』か『ネクラぶっているリア充』かというところにあるのだと、ある友人が分析していた。有り体に言えば等身大のメッセージか、作り込んだ商業音楽かの違いである。

 

前々回の記事で某氏に噛みついた理由も実はそこで、彼のツイッターはそれなりに面白いのだけど、「あぁ、作っているな」と感じる面白エピソードを頻繁に呟くところに違和感があったのだ。これはもう虚言癖と言って差し支えないレベルで話を作り込んでいると感じていたので、見ていて恥ずかしいを通り越して、可哀想になってくるほどであった。ツイッターがさながら承認欲求の吹き溜まりと揶揄されてしまうのは、常習的にそういう使い方をしている人が一定数いるからなのだと思う。

 

*   *   

 

一昔前はネットと言っても使えるサービスは限られていたから、ネットとリアルの世界は別物という認識はあながち間違いではなかった。しかし2018年現在、もはやネットとリアルは地続きであるとさえ言える状況下で、『分けて考える』という発想自体が時代遅れではないだろうか。ワンマンな中小企業に限って社長室の壁に『温故知新』なんて額縁が飾ってあるように、懐古主義も行き過ぎれば単なる“老害”になりかねない。

 

この手の格言めいた空理空論は、書店で平積みされている安い自己啓発本にいくらでも落ちている。SNS断ちだの仮想通貨だのミニマリストだの、こうした無責任なワードは中身が空っぽな奴ほど響くのだ。良書に出会うコツは本をたくさん読むことではなく、何を“読まないか”である。豆知識は読書量に比例するかもしれないが、自分のポテンシャルを底上げしてくれるような本というのは、実はそんなに多く出回っていないものなのだ。

 

借り物の言葉で何かを言った気になるのは確かに楽ではあるけれど、文章とは推敲することに意味があるのだ。自分の考えを文章に起こすために、何度も何度も推敲して表現を絞るからこそ『自分の言葉』になるのである。だから僕自身は文章を書くことを止めないし、これからも表現力を磨く努力を続けていきたいと思っている。

 

余談だが、自分の言葉と言えば、昨日某ブロググループに童貞見聞録というブログを書いている方が新しく参加されているのを発見した。覗いたら文章がめちゃくちゃ上手くて、つい10記事ほど連続で読んでしまった。恐らくあのグループの中で一番読める文章だと思う。これから彼の更新が楽しみである。

 

*   *

 

最後に某氏に。

あまり受け売りで物事を語らないほうがいい。そして、できれば文章は書き続けたほうがいい。自分の言葉を探す旅は、君自身の成長に必ず繋がるはずだから。

 

 

 

何があんたの幸せとか 

正解と不正解の境界線だとか

結局決めるのはあんた自身で 

自分で自分の首を絞める事はないよ

(amazarashi「あんたへ」2013年)