聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

映画『万引き家族』に息を飲む

水曜日の夕方、立川駅万引き家族を観た。

予告編を見た人であれば、この映画がハッピーエンドになるはずがないということは、もれなく予想していたに違いない。僕もはじめから「この家族がどのように崩壊するのか」という点に注目しながらスクリーンを見つめていた一人である。

 

 

物語は父親と息子らしき二人がスーパーで万引きをするシーンから始まる。戦利品を片手に帰路につく途中、あるアパートの前に座り込む少女に偶然出会うと、彼女をも“万引き”するかのように自宅へと連れ帰ってしまう。狭い長屋で身を寄せ合うように暮らしていたのは、一見すると父と母、姉、息子、祖母として認識できる、貧しくもそれなりの絆で結ばれた五人の『家族』であった。

 

いの一番に気になったのは、母と姉らしき二人の年齢がそう離れては見えないことだった。最初は連れ子同士の再婚かと思っていたのだが、息子・祥太が両親のことをお父さん、お母さんと一度も呼ばないことにも違和感を覚えた。そして物語が進むにつれ、彼らが血の繋がりのない『かりそめの家族』であることが次第に明らかになっていく。

 

全員で海へ出かけるシーン。

波打ち際で無邪気にはしゃぐ五人を、祖母・初枝が浜辺から穏やかに見つめていた。そのどこにでも転がっていそうな幸せの光景は悲しいほど刹那的で、分断の魔の手がすぐそこまで忍び寄っていることを予感させた。

 

翌朝、初枝は突然亡くなった。何の予兆もなく、苦しむこともなく、冷たい体になっていた。

「こーゆうのは順番なんだからさ」

妻・信代のにべない態度とは対照的に、唯一姉の亜紀だけが静かに涙を流していた。

初枝の年金目当てに同居していた夫・治は、死亡によってその支払いが止まることを恐れ、遺体を庭に埋めてしまおうと画策した。

「これは内緒だぞ、俺たちゃ家族だ」

おばあちゃんは最初からいなかった、自分たちは最初から五人家族であったのだと、子供たちに箝口令を敷いた。この辺りから、祥太の表情に少しずつ陰りが見え始める。

 

あまつさえ信代のパート先では従業員を一人クビにする必要があると告げられ、対象となった信代ともう一人の女性のどちらが退職するか、二人で話し合って決めるよう迫られる。すると彼女はこう言った。

「黙っててあげる。あたし、見ちゃったんだよね。事件の子と一緒に歩いてるの」

彼女に脅されていることに気付いた信代は、潔く身を引く覚悟を決め、口外しないよう念を押した。

「分かった。そのかわり、しゃべったら殺す」

 

彼女の口から誘拐の事実が漏れ伝わるのかと思いきや、最終的には祥太がスーパーでわざと見つかるように万引きをしてしまい、今までの悪事がすべて明るみになってしまった。これにより一家は解体へと追い込まれることとなるのだが、はじめから見えていた結末とはいえ、何とも無慈悲である。

 

そして警察の取り調べで待っていたのは、思わず耳を塞ぎたくなるような、怒濤の『正論』攻撃であった。世の中の正しさを眼前に突きつけられた彼らの行き場のない悲しみは、まるでロールシャッハの模様のように、僕の中の『正しさだけでは折り合いのつかない感情』と重なって、視界が滲んだ。

死体遺棄、重い罪ですよ?」
「捨てたんじゃない……捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは、他にいるんじゃないですか?」

 

捨てた人が、他にいた。

 

信代が伝えたかったのは、きっと初枝のことだけではなく、彼女を含めたこの家族全員がすでに誰かに捨てられていたということではないだろうか。僕はこの『捨てた人』とは、まぎれもなく『日本社会』のことを指しているのだろうと推測した。

 

正しさに打ちのめされ、それでも虫の息で訴える彼らの“三分の理”は、決して単なる開き直りなどではなかったはずだ。社会の底辺に生きる悲しみを、自分たちと社会との間で断絶されてしまった『何か』を語るには、あまりにも言葉が足りな過ぎたのだ。

 

犯罪は犯罪じゃないかと、この作品を無条件に批判できる人たちは、きっとあらゆる思考が停止してしまったリアリストなのだと思う。僕はそういう人たちを『心の冷たい人』と呼ばせてもらうことにする。

 

この映画は、現実世界だけでは幸せになれない弱者たちの姿を見事に描き切った、稀有な作品であると言えよう。

 

 

 

ねえママあなたの言うとおり

他人は蹴落として然るべきだ

幸福とは上位入賞の勲章

負けないように 逃げないように

目を覆い隠しても 悲鳴は聞かされて

耳を塞いでも 目をこじ開けられて

 

 (amazarashi「性善説」2013年)