聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

ギャップのある人

先週火曜日の夜、ブログ仲間のけーみさんと国分寺でリアルをした。改札前で先方を発見して駆け寄ると、開口一番こう言われてしまった。

「あっ、よかった!想像してた人と全然違いました!」

僕のブログの雰囲気から、かなり暗い人物を想像していたらしく、ヤバイのが来たらどうしようと本気で心配していたのだという。たしかに最近の文章は明るくないから、そう思われるのも無理はない。本当はメンヘラなんだけど、リアルのときはできるだけ感じのいい対応を心がけているつもりではある。

 

 

けーみさんは僕が想像してたよりもかなり背が高くて、いくつあるのか聞いてみたところ、183cmとのことだった。168cmの自分は目線が届かないから、必然的に彼の顔を見上げて歩く格好になるんだけど、前に様々な事情で関わった人たちが揃って高身長だったのをふと思い出した。やっぱり背が高い人はカッコいいなぁなんて、当時の残火みたいな恋情が唐突に蘇っていた。

 

ブログの印象から、手ホゲとかすごいのかも、、なんて勝手に思っていたら(すみません汗)さにあらず、仕草も話し方もいたって普通なとても優しい人だった。

その日けーみさんは僕と会う直前まで面接だったこともあり、会話は自然と転職に関する内容に。「受かっても不安だし、落とされてもつらい」という痛し痒しな状況でいると聞いて、月並みなことしか言えない自分の無力さにもどかしさを感じたのだった。

※その後採用になったそうで、おめでとうございます。わりと近い距離に住んでるし、またご飯でも行きましょう。

 

冒頭の「想像と違っていた」という話の続きなんだけど、実はリアル後にブログを見てドン引きされるという逆のパターンもあったりする。

「あの文章って、ほんとにたぬ吉くんが書いてるの?」

そう言われたことも一度じゃないから、いずれにしても実物と文章でかなりのギャップがあるようだ。

 

他人がそう感じる理由としては、恐らく僕自身の心の中に「大人の自分」と「子供の自分」が両極端に存在しているからなのだと推測する。どちらが本当の自分かなんて分からないけれど、文章に関して言えば、ほとんど大人の自分が書いているものだと思われる。

 

*   *   *

 

ギャップを感じた人と言えば、ここ最近amazarashiと同じくらいハマりつつある中島みゆきである。普段はどんな人なのだろうとYouTubeで彼女のラジオを聞いてみたら、自分が想像していたしゃべり方とまったく違っていて、それがなかなかにクレイジーで驚いたのだ。正直ちょっとガッカリしたんだけど、よく考えたら普段のしゃべり方と楽曲の素晴らしさって何の関係もなくて、そもそも知らなくていい情報を自分から取りに行ったのがまずかったのだ。

 

 

そこでふと我に返る。お前こそ大概だぞ、と。

話し方、所作、一人称、ぬいぐるみ。客観的に見たときに、その実物の何と子供っぽいことか。こうなるとギャップどころの騒ぎではなく、同じ人格なのかもいよいよ怪しくなってくる。二面性とは誰もが持ち合わせているものだけど、この自分のアンバランスさは一体どこから来ているのだろうか……。

 

そんなことを深夜に考えていると、先にリアルで知り合って、後からブログやツイッターで繋がるという流れはヤメたほうがいいのかもしれないという結論に至った。自分で言うのもあれだけど、相手が僕の事情を何も知らない前提で会うと、疾患にまったく気付かれないことが多いのだ。リアルの人間関係を重視した場合、SNSで発信する僕の自我はマイナス要素にしかならないのである。

 

 

さもなくば、ブログをもっと一般受けする内容にするしかない。夕飯は何を食べましたとか、最近これにハマってますとか、そういう卑近な話題で埋めていけば、それなりのコミュニケーションツールとして成立するのかもしれない。しかしそれでは単なる日記になってしまうわけで、言いたいことが何も言えなくなってしまう。自分にとっての文章を書く意味が失われてしまうのだ。

 

*   *

 

amazarashiの「爆弾の作り方」という楽曲がある。

この歌を聴いていると、まるで自分のことを歌っているような錯覚に陥ってしまうのだ。

 

分からないものは分からないし
やりたくないことはやらないし
そう言ってら落伍者扱い 立派な社会不適合者
やり続けることの情熱も 今じゃ余計な不穏分子
純粋でいることの代償は つまり居場所が無いって事だ

 

この部分はどうしてもADHDの自分を重ねてしまう。やりたいこととやりたくないことがハッキリしているくせに、いざやりたいことを続けようとすると、正体不明の強迫観念に襲われるのだ。結局心の中はいつも取っ散らかっていて、それが自分にとっての純粋さってやつで。そんな自分がきれいに収まる居場所なんて、どこにも存在するわけがないのだ。

 

行き場の無いイノセンス イノセンス 今に見てろって部屋にこもって
爆弾を一人作る 僕らの薄弱なアイデンティティ
ひび割れたイノセンス イノセンス こんなんじゃないって奮い立って
僕は戦う つまりそれが 僕等にとって唯一の免罪符

 

行き場のないイノセンスというのが、恐らく「子供の自分」のことなのだと思う。そういう意味で僕が中島みゆきに感じたクレイジーさは、一言で表現すると「幼児性」だ。その“理解出来なさ”というのは、大人が子供の無邪気さに触れたときの戸惑いと類似している。

そして部屋にこもって「爆弾」を作るということは、その薄弱なアイデンティティを何かで表現することだと言い換えられる。「大人になれなかった子供」は、それしか冷徹な社会と戦う術を持たないのである。

 

張り裂けた胸はくっつかない
セロハンテープでとめた心
またいつ剥がれるのかと 今日もびくびくしながら生きるぜ
間違ってしまった僕等の たった一つ正しい涙
潔白でいる事の代償は 誰かを傷つけるって事だ

 

世の中の大半の人たちは、毎日会社や組織の中で積極的に自我を殺している。「子供の自分」とのギャップを穴埋めするために、セロハンテープでとめた心が剥がれないように、大人のふりをし続けるのだ。自分たちの生きている世界は間違いなんかじゃないと、その正しさを証明するために。

 

許されない僕等が 許されるための手段
傷つきやすい僕等が 身を守るための方法
僕は歌で 君はなにで?
僕は歌で 君はなにで?

 

ボーカルの秋田ひろむ氏は、きっと音楽でしか身を守る方法がなかったのだろう。それはきっと中島みゆきにも共通していると思う。「許されない僕らが許されるための手段」という言葉が、アウトロー特有のうらぶれた感情を表現していて、心がえぐられる。

 

「君は何で?」という問いかけに、僕自身もそろそろ答えを出すときが近づいているのかもしれない。

 

 

(amazarashi「爆弾の作り方」2010年)