聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

登山家の冒険は続く

前回更新した記事が、はてな公式ツイッターでおすすめ記事として取り上げられたこともあり(神原さんが教えてくれるまで知らなかった)、土日の二日間だけでPV数が過去最高の3400を記録した。

 

tanukichi.hatenadiary.com

 

やはり世間的にセンセーショナルな内容だったのか、生活保護については予想以上に関心が高いようだ。恥も外聞もかなぐり捨てた甲斐があったと思う。

 

実は一件だけ、成瀬優さんという名前の方から「人の金で生活しているなんて、生きてる意味ないですよね」というバッシングのコメントが書き込まれていた。なんだかなぁと思って削除してしまったんだけど、すぐにそのことを後悔した。ただ削除するのではなく、その人に向かってこう質問するべきだったのだ。

「生きてる意味って、何ですか?」と。

意味のある生き方とは一体どういうものなのか、それを当人が知っているのであれば非常に興味深い。悟りの境地にでも達しないと見えてこないような重たいテーマだけに、直接会って聞いてみたいくらいである。

 

*   *   *

 

そんな僕の愚問に答えるかのように、登山家の栗城史多さんが21日、エベレスト登頂を目指している途中で亡くなった。この方の存在は当日のニュースで初めて知ったんだけど、なんでもこれまでの登頂はことごとく失敗に終わり、2012年には重度の凍傷により9本の指の大半を切断しているのだという。それでも独立独歩の精神で8度目のチャレンジとなった今回は、あえて通常のルートよりはるかに困難とされる「南西壁ルート」を選択し、酸素ボンベも持たず一人単独で挑んだのだそうだ。

 

僕は登山に関してはズブの素人なので、それが如何に難しいものかは形容しがたいけれど、度重なる失敗により一部のアンチからは“下山家”などと揶揄されていたと聞く。彼だって伊達や酔狂で冒険していたわけではないだろうが、アルピニスト野口健氏や登山ライターの森山憲一氏もやはり否定的な見解で、訃報に際し「彼の登山スタイルは無謀すぎた」と無念さを滲ませていた。

 

news.livedoor.com

 

bunshun.jp

 

しかし他方では、彼は登山家などではなく、あくまでも山を対象とした表現者だったと評する声もある。だとすると、彼が最難関と言われるルートをたった一人無酸素で登り、そこで表現したかったものとは何だったのか。9本の指を失ってもなお、誰も成し遂げていない記録へ果敢に挑み続けた動機とは一体何だったのか。それは本人がインタビューで語っていたように「否定という壁への挑戦」だった。そこに彼は命を賭けていたのだ。

 

 

僕は正直「生きてさえいればいい」とか「生きていなきゃ意味がない」みたいな考え方って綺麗事にしか聞こえなくて、そういうのは単純に死にたくないやつのエゴなんじゃないかと思っている。“死んでも構わないと思える何か”を見つけてしまった彼らのイノセンスは、惰性で生きている我々の命なんかよりも、実はずっとずっと崇高なものなのではないだろうか。

 

それを見つけられない僕らは、知らず知らずのうちにあらゆる否定を「常識」として積み重ね、あまりにもつまらない世界を生きてしまっているのだろう。そしていつしか開き直りが度を過ぎて、「命を大切にしよう」なんてことを平然と口にしてしまうようになった。

 

逆にそこまで彼を批判するのであれば、生きる目的というものが最終的にどこへ帰結するのか、そのことを知っていなければ説得力がない。何を持ってして命を肯定できるのか、その根拠を示すことで初めて「命の大切さ」なんてものが語れるんじゃないだろうか。植物状態になってしまった人を呼吸器でつないで無理矢理生かすのと同じように、当事者不在の尊厳論に一体何の価値があるというのだろうか。

 

たまに「死ぬこと以外はかすり傷だ」なんて考えを共有したがる人がいるけれど、じゃあもし明日交通事故で片腕を失ったとしても、ずっと同じことを言い続けられるのかと疑問に思う。たとえ抱えている困難が死に直結しないものだったとしても、それをかすり傷と思えるかどうかは人それぞれではないのか。焼き鳥の塩派がタレ派をこき下ろすように、ポジティブがネガティブを、生が死を迫害する今の日本の現状に、僕はいい加減うんざりしている。根性論でどうにかなるのであれば、年間三万人いる自殺者たちの動機はどう説明してくれるのか。

 

*   *

 

森山氏は、彼の頭の中がどうしてもわからないと嘆く。そりゃそうだ。命あっての物種という精神で営々黙々と生きている以上、わからなくて当然なのだ。安全なレールの上を惰走するだけのマンネリズムに浸っていては、きっと一生、彼の行動を理解できる日が訪れることはないだろう。

 

彼の命は「人はなぜ生きるのか」という最もシンプルでプリミティブな哲学となって、たった今、人々の心という見えない山を登り始めたばかりなのだ。

 

 

 

愛した物を守りたい故に 壊してしまった数々

あっけなく打ち砕かれた 願いの数々

その破片を裸足で渡るような 次の一歩で滑落して

そこで死んでもいいと 思える一歩こそ

ただ、ただ、それこそが 命にふさわしい

(amazarashi「命にふさわしい」2017年)