聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

存在を証明する方法

「断捨離の極意は何を捨てるかではなく、何を残すか」と話すのは、片付けコンサルタントで有名な近藤麻理恵さんだ。近藤さんは自著で「ときめきを感じるものだけ手元に残し、感じないものは処分する」という、至極シンプルな断捨離術を、世の中の片付け下手なマキシマリストたちに提唱。2015年には世界で最も影響力のある100人にも選ばれたとあって、リバウンド率0%はなるほど頷けるものがある。

特に書籍に関しては全捨てを推奨しているんだけれど、いわゆる“殿堂入り”は迷わず残すべきだと言う。実際に読み返すかどうかは別として、自分にとって本棚に置いてあるだけで嬉しくなったり、ときめきを与えてくれるような本は手放してはいけないのだそうだ。

 

殿堂入りの本……言われてみれば、たしかに存在した。僕の場合は高校二年生のときに出会った「真夏のボヘミヤン」というBL小説がそれに当たる。

「普通」であることにコンプレックスを抱く高校生の主人公と、街頭詩人をしながら日本全国を旅する24才の青年の前途多難な恋物語なんだけれど、秋月こおさんの書く一人称語りの軽快な文章が大好きで、それこそ十代の頃は手垢が付くほど何度も何度も読んだのを覚えている。BL系の小説はたくさん持っていたんだけど、この本だけはどうしても手放せなくて、家を引っ越すときもずっと大切に残してきたのだった。

 

真夏のボヘミヤン (コバルト文庫)

真夏のボヘミヤン (コバルト文庫)

 

 

この程十数年ぶりに読み返してみたんだけれど、大好きだった世界観はそのままに、むしろ大人になった今だから響く言葉も多分にあったりして、改めて小説の持つ魅力に気付かされた。そういえば20代前半頃までは小説家に憧れていて、何か物語をひらめいては散文的にノートに書き綴ったりしていたこともあった。

歳を重ねるにつれ、次第に手記やエッセイなどを多く読むようになり、いつの間にか小説の世界と距離を置くようになっていた。それはつまり分かりやすいフィクションを好まなくなった、と言えるかもしれない。

 

特にBLに興味がなくなったのは、実在するゲイとの接点を持ち始めたことが多大な影響を及ぼしている。少なくとも僕の知る限り、ゲイの現実世界には十代の頃に憧れた「純愛」なんてものはどこにも存在しなくて、それぞれが持て余した肉欲をいかに見映えよくパッケージするかに終始していた。正直そんなゲイ社会に救われた部分も絶望した部分もあったりして、虚飾が当たり前になってしまった自分への自己嫌悪もあるのだと思う。

 

単純な比較で小説をつまらなくしていたのは、他でもない自分自身だった。ところが僕を取り巻く世界をよくよく観察してみると、その実フィクションというものは小説に限らず、日常生活の延長線上に無数に存在していたのだ。今自分の目の前で起こっている物事以外は全てフィクションなのかもしれない。そんなふうに意識するようになると、今度はモキュメンタリーのような映像作品やピカレスク小説など、空想と現実の境目をうまい具合にボカした創作物に惹かれるようになっていった。

 

*   *

 

そういえば数日前、あるフォロワーさんがとても気になる発言をしていたので貼ってみる。

 

 

これ、ブログ仲間の神原さんとも完全に意見が一致したんだけど、例えば政治批判とか世の中に対して訴えたいものがある場合、イデオロギッシュに声を張り上げたりするよりも、創作物(絵画や音楽や小説など)の中から間接的にメッセージを発信したほうが、人の心のより深い部分にまで届いたりするものなのだ。たいちさんのツイートにも言えるように、創作物だから許される表現というのも大いにあって、むしろそれというのは、実はものすごく高尚な手段なんじゃないかと思うのだ。

 

愛とか夢とか希望とか、耳障りよくまとめた俗っぽいメッセージソングは世の中にごまんとあるけれど、いかんせんそのほとんどは商業的で自分には響いてこないことが多い。そんな中で僕の好きなamazarashiは、いかにも世間で盲信されているそれらに対して、独自の視点を持ってこんな具合に風刺している。

 

愛されるだとか 愛するんだとか

それ以前に僕ら 愛を買わなくちゃ

消費せよ 消費せよ

それ無しではこの先 生きてけない

消費せよ 消費せよ 

それこそが君を救うのだ

amazarashi「ラブソング」

 

 

孤独になっても夢があれば

夢破れても元気があれば

元気がなくても生きていれば

「生きていなくても」

とかあいつらそろそろ言い出すぞ

amazarashi「ヒーロー」

 

 

夢は必ず叶うから 

って夢を叶えた人たちが 

臆面もなく歌うから 

僕らの居場所はなくなった

amazarashi「ヨクト」



 

それなりに愛されて育ってきたポジティブ信者には、この「ネガティブが持つ究極のポジティブ」はもしかすると伝わらないかもしれない。amazarashiの場合はこうしたねじれの強い音楽で表現しているけれど、画家であれ芸術家であれ「これってどういう意味なんだろう?」と、あえて引っ掛かりを作ることで受け手に宿題を残したり、考える余地を与えてくれるような作品を生み出す人というのは、基本的に頭がいいと思う。

 

 *   *

 

コミュニケーション不全の自分には居場所を作るような器量もないし、呼び掛けるような人脈もない。しかし、自分一人でも何かをしたいという思いは常にあって、じゃあ一体何が出来るんだろうって考えたら、自ずと答えは決まっていた。そう、それは小説に代表されるような創作による文章を書くということだった。

LGBTADHDなど、自分が関与する社会問題についてストレートに意見を述べるのもそれはそれで意味のあることなんだけど、僕自身が本当にやりたかったのは、誰しもが首肯せざるを得ないような正論を振りかざして気持ちよくなることなんかじゃないのだ。それよりも社会の最底辺からしか見ることの出来ない視点を武器に、僕は僕にしか思いつかないような空想の世界を、僕の言葉だけでドライ且つアナーキーに表現してみたい。

 

直近の目標は文学フリマに出展して、自身の作品を頒布することだ。次回開催の11月までに間に合うかはわからないけれど、決意表明でもしない限りなかなか実行に移せない性格なので、まずはブログに書き出すことで自分に対してせっついておく。

きっと僕にとって文章の世界こそが居場所であり、自分の存在を証明する唯一無二の方法なのだ。