聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

僕らと世界の不協和音

ノンケを好きになってしまう状況って、なかなか辛いものがありますよね。最近更新されていた件の記事をいくつか拝読しましたが、下手なBL小説なんかよりよっぽどリアルで、まっすぐで、純愛そのものです。

 

特に告白後のくだりを読むときは、画面をスクロールするのも緊張してしまいます。自分は人一倍感受性が強いので、そうした文章に触れるたび、自然と目頭が熱くなってしまうのです。

 

そんなわけで、今回はゲイとノンケの恋愛、差別や性自認の曖昧な境界線などについて一考してみました。

 

*   *   *

 

・ノンケという純愛

そう言えば二年ほど前になりますが、トモフミさんというゲイの方のブログをリアルタイムで追っていた時期がありました。内容はカズさんというノンケの男性にまつわる恋愛日記で、告白するまでの葛藤や心の機微が赤裸々に綴られています。

 

 - Dear Diary

 

ときに思わせぶりな相手の言動にはしゃいだり、小さなすれ違いに心を傷めたり。まるで子供のように一喜一憂する様子が切なすぎて、読み進めるにつれ、いつしか感情移入するようになっていきました。

 

記事は2015年12月18日の更新を最後に止まったままになっているんですが、実はトモフミさん、最後の記事の中でこんなことを書いてるんですね。

 

ともあれ、スカイツリー周辺はすっかりクリスマスムード一色で、ちょっぴり恋人同士っぽい気分を味わえたわけですが、
来たる25日には、
カズさんに内緒で買ったプレゼントを渡すつもりです。


僕なりの精一杯の感謝の気持ちを込めて。

 

カズさん、喜んでくれるといいなぁ。。。

 

これ、告白してフラれた後の話なんですよね。

そしてこの日以降、更新が途絶えてしまった。

 

もしかしたら、何かものすごく悲しい出来事があって、ブログを書く気力を失ってしまったんじゃないか。ついそんなふうに邪推してしまうのですが、その後はどう決着がついたのか、今も気になって仕方ありません。

 

久々に彼の過去記事を読み返してみましたが、片想いでこんなにキラキラした気持ちになれることって、そうそうないよなぁなんて羨ましく思ったり。

 

トモフミさん、どこかで元気にしてるといいな。

 

(山崎あおい「恋の予感」2013年)

 

*   *

 

・外見の男性性、内面の男性性

自分の恋愛遍歴について。

世間ではよく初恋の思い出を語ったりするけれど、自分の場合はどれが初恋だったのか、よく覚えていません。ちなみに誰も興味ないと思いますが、初体験は小学5年のとき、当時中学2年だった人と。ノンケへの告白は二回ありますが、いずれも玉砕しています。

 

過去にお付き合いした人数は、今の相方を含めて四人(の、はず)。そのうち二人とは同棲して、一人は愛知県住みだったので遠恋でした。こうして振り返ってみると、恋愛経験は比較的多いほうなのかもしれません。

 

で、ここが重要なんですけど、実は付き合った四人のうち三人がバイセクシャルなのです。もちろんこれは偶然でも何でもなくて、僕が相手に対して『内面の男性性』を強く求めている結果なんだろうと思います。

 

ゲイの方でも内面の男性性が強い場合もあると思いますが、僕の経験上『元々はノンケで学生時代は女子と付き合ったりしていたけど、今はほぼゲイ』みたいな人たちが多い気がします。物心ついた頃から男性のみが恋愛対象だった人たち(自分含む)に比べると、名状し難い感覚の違いが存在するのです。

 

逆に『外見の男性性』が強いゲイはごまんといます。

 

見た目の男らしさがモテに直結する時代に、某アプリでは相変わらずマッスルウルフが大人気。外見のステレオタイプ化に拍車がかかる中、筋トレやジム通いに汲々としているゲイは多いのではないでしょうか。

 

自分はこの『相手との釣り合いを保つための努力』みたいなものが基本的に出来ないので、短髪筋肉質のような人と体の関係はあれど、お付き合いをしたことは一度もありません。よしんばその手のタイプの人と付き合ったところで、長続きしないのは目に見えています。

 

むしろ僕的には、いくら見た目を男らしく武装したとしても、ゲイというのは総じて『内面の女性性』が強い傾向があるように思うのです。僕自身が内面の男性性の強い人に好かれる傾向にあるのは、ある意味で需給の合致と言えるのかもしれません。

 

(ベッド・イン「男はアイツだけじゃない」2017年)

 

*   *   *

 

一橋大学アウティング事件

三年ほど前、一橋大学に通うゲイの学生が、ノンケの友人に告白したことをアウティングされ、それを理由に自殺した事件が話題になりました。メディアはこぞって相手側を責めるような形で報道しましたが、僕は当初からこの報道姿勢に懐疑的でした。

 

www.buzzfeed.com

 

自殺の目的は二つ考えられます。

 

一つはアウティングされたことで、それまで属していたコミュニティに居づらくなったことによる、精神的苦痛の可能性です。彼を“被害者”として劇画的に扱いたいマスコミやLGBT団体などは、当然こちらの可能性を取り上げました。

 

そして二つめが当て付けによる自殺です。告白した事実をアウティングされたのと引き換えに「この人は僕のセクシャリティを周囲にバラした、粗忽で無慈悲な人間です!」と、その是非を自殺という形のアウティングで世の中に問うた可能性も否定できません。

 

前者の可能性も十分考えられるのですが、そもそもアウティング後にグループライン内の誰かが彼に心ない言葉を浴びせたとか、直接的に何かをしたという証言はどこにも出てきていません。

更にはこんなことも書いてありました。

 

裁判の中でBは交際を断った後もAから食事に誘われるなどしたことで精神的に追い詰められてこれを回避するには暴露しか手段がなかったと主張し、大学は対応は適切だったと主張している[1]。

出典:Wikipedia

 

仮にこれが真実だとすれば、断られてもなお食事に誘えるメンタルの持ち主が、本当に自殺するほど追い詰められていたと言えるのでしょうか。

彼の夭折を悼む親族の気持ちも理解出来なくはないのですが、相手側のこの主張からも分かるように、恐らく当てつけによる自殺の意味合いが強かったのではないかと思うのです。からに、告白やその後のアプローチもよほど強引だったのではないかと想像します。

 

いずれにしても、暴露したことがトリガーとなって彼が亡くなった事実は動きません。相手はそのカルマを一生背負って生きていかなければならないのですから、これほど重い罪はないですよね。

 

なぜこんなにも相手側の肩を持つかというと、理由は高校時代に遡ります。当時好きだったノンケに告白したんですが、優しく振ってくれたにも関わらず、その後も逞しい妄想力で期待を膨らませ、バレンタインに香水を鞄に勝手に入れたら「香水入れたのお前だろ、ふざけんな」と怒られてしまい(当たり前)自殺未遂をした過去があるからです。

 

しかも自分の場合はアウティングもされていなかったので、彼は一切悪くありません。恋々としがみついた挙げ句、完全に当てつけで死んでやろうと思っていたので、タチが悪い。若気の至りだったと反省しています。

 

(amazarashi「僕が死のうと思ったのは」2016年)

 

それから紆余曲折あった末、ノンケを好きになることはほぼ無くなりました。二度の告白によって辛酸を舐めた経験から、相手のセクシャリティがはっきりしない以上、両想いなんてゆめゆめ期待しなくなったのです。自分のことをどう思っているかわからない相手にリーチするのはリスクが高過ぎると、損得勘定のほうが先立つようになってしまいました。

 

ただ、それと引き換えに、何か大切な純粋さを失ってしまったようにも思います。

 

先の事件からもわかる通り、僕らがノンケに告白しようとする場合、防衛規制としてその事実を相手が心の中だけで留めてくれるかどうかも慎重に見当しなければなりません。気持ちを伝える以上、相手の所属するコミュニティや友人関係すべてに向けた、間接的なカミングアウトであると心得るべきなのではないでしょうか。

 

「自分が好きな相手なら、そんなことするはずない」というのは思い過ごしで、万が一バラされてしまったときのリスクも念頭に置く必要があります。覆水盆に返らず、こればかりは宿命というか、ゲイに生まれてしまったことの人生税なのかもしれません。

 

*   *   *

 

・表層的なジェンダーレス

近頃は性的嗜好性自認は分けて考えるべき(SOGI)とする論調が広がりを見せていますが、僕はこの言葉にあまりアグリーではありません。なぜなら性自認ほど曖昧で不確かなものはないし、それをジョハリの窓的に四分割にすること自体無理があると思うからです。

 

LGBTをさらに包括的に取り扱う意味では正しいけれど、その実『性別』という概念こそが多様性を妨げている諸悪の根元であって、極論を言えばマイノリティのみならず、マジョリティも含めてすべてスペクトラムで管理すべきです。本当の意味で差別の無い世界を目指すのであれば、『男女』という概念を完全に破壊して、一から再定義する必要があると思うのです。

SOGIという言葉からは「体の性別と性自認は違っていても構いませんから、必ずどれかを選択してください」という圧力を感じます。そしてそれは「マイノリティ側に最大限合わせてみた結果、こんな抽象的な表現に辿り着きました」と言われているような、複雑な気持ちになるのです。

 

ちなみに僕の内面は女性性が強いという自意識があるけれど、男のままで生活しているのは「わざわざ海外へ行って大金を払い、手術をしてまで女性の容姿になりたいと思わない」から。生まれてこの方、自分の性別をはっきり男だと認識したことはただの一度もありません。

例えば翌朝起きて自分の体が女性になっていたとしたら、それなりに楽しく生きていけると思うんですよね。

 

それに文章を書くときは仕方なく『僕』という一人称を使っているけれど、実際の一人称は『オイラ』です。『俺』とも『僕』とも言いたくなかったのは、きっと女性になりたいのではなく、無条件に男性としてカテゴライズされることに違和感があったからだと思うのです。

 

職業にしても、保母さんは保育士、看護婦は看護師など、男女共に活躍できるものはジェンダーフリーな呼称へと変わりました。「(彼氏彼女ではなく)パートナーはいるの?」という聞き方だったり、名前の呼び方を〇〇さんと統一したりすることもまた、多様性への配慮とされつつあります。

 

しかし多様性を推進するということは、同時に『同性』という定義が崩れるわけで、個を尊重すればするほど秩序はなくなっていきます。現にゲイが抱える複雑性の一つとして、この同性という定義がどこにも存在しないという不安定さが挙げられるのではないでしょうか。

 

tanukichi.hatenadiary.com

 

そして仮に男女という大多数にとって合理的なシステムを手放したとして、それにより起こりうる不都合も全部、清濁合わせて飲み干すことが出来るのでしょうか?

 

 

(欅坂46「不協和音」2017年)

 

*   *

 

・終わりに

ツイッターで、ある人の片想い中のボヤきに対して『恋は実らないとただの精神病』とバッサリ斬り捨てているリプを見かけたことがあります。当時は「何を偉そうに」と憤ったものですが、それはもしかすると、無情にも恋が成就しなかったときに他責にしてしまう、人間の心の弱さのことを言っていたのかもしれません。

 

そして先日の差別問題の記事でも触れたけれど、例えば女性専用車両などという男女差別の権化が平然とまかり通る社会において、「同性は性的な対象になり得ない」という穏やかな同性愛差別は、実生活の至るところに転がっているのです。木を見て森を見ず、SOGIのような一見すると多様性に取り組んでる風のいい加減な言葉だけを量産するのはそろそろヤメにして、知らぬ間に誰かの哀しみの影を踏んづけてしまっている、その足元を見るべきではないでしょうか。

 

 

 (amazarashi「虚無病」2016年)