聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

差別の正体

chuckさんが教えてくれたゲイブログへ参加してからというもの、以前に比べて格段にアクセス数が増加しています。自分がはてなを使っていたのも本当に偶然なのですが、こうした繋がりはとてもいいものですね。

新しく読者になって下さった方もたくさんいて、モチベーションの維持に大変役立っています。この場を借りて御礼申し上げます。

 

そんなゲイブログ内ではここ数日、カミングアウトや性的少数派の社会的認知の必要性について、記事が複数投稿されていました。とても興味深いテーマなので、これらについて自分の考えを書いてみようと思います。

 


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・カミングアウトの有用性

人は誰でも、承認欲求や自己顕示欲という類いの感情を持っています。自分を一番分かりやすい形で他人に知られたいという気持ちは、至極当然の欲求と言えます。

 

性的嗜好のカミングアウトについても大抵の場合、理解者を得たいとか、自分を認めてほしいときに用いる手段なわけですが、その行為は必ずしも一方的な吐露になるとは限りません。

 

例えば相手から自分の悩みなどを打ち明けられたとき、ふとこちらも同様に悩みを打ち明けたいと思うことがあります。こうした持ちつ持たれつの感情は、心理学用語で『自己開示の返報性』と呼ばれています。

これがうまく作用すると、思いがけずカミングアウトの応酬が始まって、それがきっかけで親密な関係になることもよくある話。魚心あれば水心、そんな展開を発信者は心のどこかで期待していたりするものです。

 

しかし人にはそれぞれ許容できる範囲というものが存在していて、これをうっかり見誤ってしまったとき、相手が予期せぬ形で馬脚を現すことも少なくありません。ちなみに学生時代、僕が言われた中で一番心が折れたのは「それって治らないの?」でした。

 

こんなふうに、相手がこちらの意図する反応ではなかったときが非常にやっかいで、傷付くを通り越して怒りや怨嗟の念さえ覚えることがあります。そんな時、人間とはつくづく面倒な生き物だなと思うのです。

自分の場合も相手を買い被ってただけの話なんですが、当時としてはそれなりにショックを受けました。カミングアウトとは、言わば諸刃の剣なんですね。

 

 

・差別と優しさ

ただ、こうした『ゲイを必要以上に嫌う男性の心理』については、トイアンナ氏の書いた考察が自分の中でかなり腑に落ちるものでした。少し前に読んだ記事ですが、ここで引用してみたいと思います。

 

toianna.blog.fc2.com

 

たとえば「男女の友情なんてありえない、どこかで異性は恋愛対象になる」という発言、実生活で聞いたことがある人も多いと思う。こう言っていた人が同性愛を認めたら、もうその人は他人を一切家へ呼べないだろう。「ニンゲンと友情なんてありえない、どこかで性的に気になるものだよ」になってしまうから。逆に言えば「男女の友情なんてありえない、どこかで異性は恋愛対象になる」という発言がまかり通ってきた日本の社会では、同性愛なんて黙殺の対象でしかなかった。
 

 

優しい人こそ同性愛を拒絶したくなる。これは逆説的なように聞こえるけれど、咀嚼してみるとその意味するところが理解できます。

自分にとって絶対安全圏と思っていた同性というテリトリーが、同性愛を認めてしまうことで侵略されかねない。そんな猜疑心が差別発言となって我々に牙を向いてしまう図式は、今にして想像に難くありません。

 

同性愛を議論するときに「同性愛ってなんだか気持ち悪い」という異性愛者の言葉をこき下ろしてはいけない。「気持ち悪さ」というあいまいな感情だから差別は本質的なのだ。そこには「女性は男性をレイプしたりしない」「男性は女性と友情から始まっても最後には口説くもの」という男女差別が同性愛差別のベースとして眠っている。
 

 

差別は本質的というくだりで、思わず声が出ました。

それまでは同性愛を理解できない人たちの頭が不自由なだけだと一方的に思い込んでいましたが、世の中に蔓延る男女差別がベースに眠っているという捉え方は、非常に的を得ているように思います。

 

そうなると当然、男女差別の問題がアンタッチャブルなままでは、ダイバーシティ社会の実現なんて絵に描いた餅でしかありません。

しかしながら、女性であることだけが武器の小池氏が都知事に選ばれるきょうびの日本社会において、そんな理想郷が果たして実現されるのか。マツコ・デラックスは彼女を権力志向のホステスなんて揶揄していたけれど、甚だ同意するところではあります。

 

 

・ゲイ同士の差別と生存者バイアス 

そう考えると、ゲイの当事者間で存在する差別や偏見にも、そろそろ目を向けなければいけません。

「アプリで手軽にセックスをするのはいずれ虚しくなるからやめるべきだ。それにお前らがゲイの印象を下げているんだぞ!」と、アンバサダー気取りで講釈を垂れる人たちをたまに見かけるけれど、そういう人こそもっと自分の足元をよく見るべきだと思う。

 

こうしたテンプレの言葉がどこから来るのかと言えば、既に人生の伴侶を得たというその人の成功体験、いわゆる生存者バイアスに由来するものだったりします。

一人のパートナーと人生を共にするのはたしかに素晴らしいことだけど、恋愛やセックス、パートナーシップの在り方は誰かに強制されるものではありません。

 

tanukichi.hatenadiary.com

 

仮にパートナーがいながら浮気をしたとしても、それを隠す努力と詮索しない優しさで世の中は穏やかに回っているのです。誤解を恐れずに言うと、貞操観念とはあるように装うものなのではないでしょうか。

 

ゲイ同士の理解し難い行動をたしなめたくなる気持ちもわかりますが、やみくもに否定するのではなく、もう少しアサーティブに言及する努力も必要だと思います。

 

 やりたくなるさにんげんだもの

 相田みつを

 

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・まとめ

フランスの哲学者・ボーヴォワールは、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という名言を残しています。これはつまるところ、女性とは男性からの差別によって後付けで作られる性別だとするものです。

 

決定版 第二の性〈1〉事実と神話 (新潮文庫)

決定版 第二の性〈1〉事実と神話 (新潮文庫)

 

 

エッセイストの酒井順子氏も、日本の男尊女卑については女性が自ら従属を望んでいるとして、示唆に富んだ考察をされていました。

 

男尊女子

男尊女子

 

 

 

男が何かに差別的になるとき、その裏では必ず守りたいものが存在します。それが当人の沽券に関わるようなものであればあるほど、攻撃性を帯びてしまうものです。

 

一般に父性とは庇護欲であると例えられますが、そう考えると男性と差別は切り離せない何かがあり、守られたい側はそれをどこかで理解しているのかもしれません。

 

差別は仕方のないことだと諦めるのではなく、無くなることはないんだと開き直ってしまうと、少しでも歩み寄ろうとしてくれる世界が愛おしく思えてくるのです。