聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

理論武装とスノビズム

 

毎回自分のことだけ書くのもつまらないので、たまには知らない人の記事も俎上に載せてみようと思う。

最近発見したシロクマさんという方のブログである。

 


俺がインターネットをとおして出会う人が、みんな賢くみえる件について - シロクマの屑籠

 

その中でも特にこの内容が気になったので、僭越ながら問題意識の矛盾についてメスを入れてみたい。

以下その考察である。

 

 

*  *  *

 

 

反面、ここ5年ぐらいの間にインターネットを介して新たに知り合った人達には、ストレートな馬鹿がいないように感じられるのだ。無能がいない、表現力の乏しいやつがいない、とも言い換えられるかもしれない。オフ会などを通して確認した限りにおいて、ここ5年ぐらいでネットで知り合った知己に、なかのひとが馬鹿だったり面白くなかったり無能だったりした形跡は感じられない。いわば「アタリ」を引く度合いが高くなっている。昔はこうではなかったはずだ。

 

 

各々が扱うトピックにもよるけれど、ブログという媒体は新聞などと違い、書き手の筆致でおおよその支持層が絞られてしまうきらいがある。

彼の筆致は活字好きなインテリ層にはカルトに入ってくるかもしれないが、いわゆる“馬鹿な人たち”がゆったりと読めるような筆圧ではない。むしろ浅学では取りつく島がないほど洗練されているけれど、それ自体に問題はないと予め申し上げておく。

引っかかったのは、恐らく当人もそのことに無自覚でいるはずがないのに、なぜか賢い人間ばかりが寄ってくると懊悩しているところである。そのあたりを紐解いてみると、彼は故意に語彙マウンティングで馬鹿を遠ざけながら、しかしそれではあまりよろしくないと、マッチポンプ式に問題提起しているのではないだろうか。

 

 

語彙マウンティングの具体例が小池百合子氏である。

 

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 もとい。

 

 

 

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小池氏といえば、昨年定例会見で豊洲移転問題について触れた際、“アウフヘーベン”というカタカナをサラッと使い、理解出来ず問い直した記者に対し「辞書で調べて下さい」と言って反感を買ったのは記憶に新しい。

更に週刊文春では、池上彰氏との対談の中で「結果的に他国とのラポール(信用)が出来て…」と、これまた聞き慣れない横文字を披露。すかさず池上氏に「ある一定以上の教養がある人は理解できますが、ちょっと知性が滲み出すぎていませんか?」とたしなめられ、「おフランス語ですよ」と例の調子で煙に巻く始末であった。

彼女が教養人であることに異論はないが、「わかる人にはわかりますから」という不遜な態度に地金が出てしまっている。「排除いたします」とばかりに、馬鹿な人たちを語彙でマウンティングしているのである。

 

 

そういえば何年か前にマウンティング女子という言葉が流行ったけれど、対してマウンティング男子という言葉が流行らないのはなぜだろうか。

それは恐らく男社会において、虚栄心や競走心といった感情はデフォルトとして備わっていて、日常的に序列争いと思しきコミュニケーションがそこかしこで成立しているからだと推測する。要するにマウンティングだらけなのだ。

彼の文章にも、それがよく現れている。

うまく言えないが、何かよくわからないものと戦っているような気配が伝わってくるのだ。

 

 

お互いに、上手く選んで、上手く選ばれるようになってしまったから、お互いにとって「アタリ」な人間同士が繋がってしまう。それは豊かなことでもある反面、考えようによっては、閉じたことでもある。

 

 

彼が参加するというオフ会がどういった趣旨のものかは存じ上げないが、ブログでの交流が軸となっているのであれば、お互いを選び合っているという認識はさもありなんといった感じである。

しかし彼我を“アタリ同士”と表現しているあたり、俺はある程度クレバーな人間なのだという矜持がひしひしと伝わってくる。認められたいというタイトルで上梓するほど承認欲求が強いのに、その感情を自惚れではないと否定するのはなぜなのか。

察するに、自分で賢いと認めるのは美学に反するので、「そんなことはない、あなたは賢い」と誰かに言ってほしいからではないだろうか。

 

 

認められたい

認められたい

 

 

 

中川淳一郎さんの著書を読むまでもなく、インターネットには愚昧な暇人が溢れているし、昨今のインターネットのインフラ全体に、本来は賢い人をも愚かにしていくような「愚の巻き込み力」が宿っているようにもみえる。だから、インターネットで馬鹿を見かけること自体は珍しくないし、自分自身もまた、馬鹿と一緒に馬鹿騒ぎをやっているのだろう……と自省させられることも多い。馬鹿をやる羽目になっている本当は賢い人が、インターネットにはたくさん存在するのではなかろうか。

 

 

更に掘り下げてみると、インターネット上の“愚の巻き込み力”や“バカ騒ぎ”とは一体何を指しているのか。その具体例が一つも列挙されていないあたり、「馬鹿をやる羽目になっている本当は賢い人」というのも、案に自身のことを指しているように思う。よく見ると、自分が馬鹿だとか暇人だとは一言も書いていないからである。

例えば昔から応援しているマイナーだったバンドがじわじわと知名度を増し、猫も杓子も騒ぎ出すようになったとする。そんなとき「自分は初期の頃から知っている。にわかファンと一緒にされたくない」と僻む古参のプライドのような、そんな心情が読み取れるのだ。

初期は参加者が少なかったネットという便利なインフラが、人口に膾炙していくのがなんとなく疎ましい。そういう負の感情をオブラートで幾重にも覆い、備忘録風に書き綴ることでどうにか溜飲を下げようとしているのではないだろうか。

 

“レトリックを振り回している”という揶揄も、完全にブーメランになっている。本当に人間関係の偏りを危惧しているのであれば、難しい語彙を使わずに誰でも読める筆致で書けばいいし、自身もそうした優しい筆致のブロガーにコミットしていけばいい。

そうではなく、単純に賢い人たちとの繋がりが増えたと感じるのであれば、気の合う人と仲良くなることが増えましたと書けばいい。打率やアタリハズレという表現は上から目線であるような誤解を生むし、それはとても残念なことだと思うのだ。

 

それに、いい大人が必要以上に「馬鹿」というワードを繰り返し使うのもみっともない。相手を値踏みするのはいいとして、その意識が強すぎては互いに疲弊するだけであろう。自己をネットという狭い世界だけでスケールしようとすると、返って足の引っ張り合いになるような気がしてならない。どうしてこうなった。

 

 

 *  *

 

 

個人的な話をすると、00年代にパソコンを所持していなかった自分は、ブログやSNSの黎明期というものをまったく知らない。それどころか数年前まで文章もロクに書けない人間だった。

振り返ってみると、ある人物から長年受けていたマウンティングがその近因のように思う。そいつは00年代、爆発的に普及する以前からインターネットを使っていて、mixiなどのSNSも早い時期から参加していた。ネット上の流行り廃りを僕に教えてくれたりもしたけれど、コイツみたいになりたくないという防衛本能からか、そういう世界と自然に距離を置いていた。

それなりに語彙力もあったので、僕が間違って解釈していた言葉を指摘されることも少なくなかった。しかしその際は馬鹿にしたニュアンスで挙げつらうので、イラッとすることも多かった。

 

アニメもゲームもマンガも好きで、オタク気質だった。それが影響してか、自分はあまりその手のカルチャーが得意ではない。というより、奴が騒いでいるものに後から手を出すと、とたんに興味をなくしたように話題にしなくなったりして、それがとても不可解だった。

そしてある日突然気がつくのだ。こいつは僕に対して常に優位性を示していたいだけなのだということに。

奴から受けた見下しや嫌がらせは枚挙にいとまがなくて、友人と言えど、あれはマウンティングの域を越えていた。完全にモラハラだったと思う。 

今はもう関わりはないけれど、スノッブ感のある文章を見るとつい思い出してしまうのである。この件はまた別の機会に詳しくまとめるとしよう。

 

 

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そんな経緯もあり、優位性を示そうとする人を見かけると、すぐにわかるようになってしまったのである。マウンティングとはいわば劣等感からくる自己防衛反応なので、そういうコンプレックスを持った人に敏感になったと言えるのかもしれない。

 

今回なにが衝撃だったかと言えば、シロクマさんが四十路の精神科医ということに尽きるだろう。勝手ながら精神科医と聞くと、もっと人間的に成熟しているイメージだったので、つい取り上げてしまった次第。

 

人の上に人を造らずとは福沢諭吉の名言である。

比較することの無意味さを改めて実感したのであった。