聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

ボランティアの美学

先週木曜日の夜のこと。テレビを適当にザッピングしていると、日本のフードロス問題について特集している番組に目が留まった。クローズアップされていたのは、セカンドハーベスト・ジャパンというフードバンクだ。

※フードバンクとは、食品を取り扱う様々な企業から売れ残りや賞味期限の近い食材の寄付を受け、食べ物が必要な人たちに再分配する活動、及びそれをおこなう団体のこと。

 

お総菜やたまご焼き、揚げ物などいろいろ入ったお弁当を、スタッフが手際よくこしらえる。見た目は寄付されたものと言われてもまったく分からない、どこにでも売っていそうな普通のお弁当だ。

出来上がったものは社長自ら河川敷まで運び、パンや日持ちする食糧と一緒にホームレスに配っていく。月二回の配給日には、200人を越す人々が列をなすという。

 

それらの食材は児童養護施設でも有効活用されていた。冷凍の唐揚げなどは簡単に調理出来るし、子供たちも喜んで食べてくれると、施設の職員は言う。

また、学童のようなサードプレイスでも食材は給食として調理され、子供たちのために無料で提供されている。食事だけでなく、大学生などのボランティアが学習指導もおこなっていて、ある少年は「勉強を見てもらえて、ご飯も食べられる、すごくいいところです」と、モザイク越しに笑顔を見せた。

 

彼らは基本的な姿勢として、「食べさせてあげる」ではなく「よかったらどうぞ」という、あくまでも対等な立場からアプローチすることを心がけているのだと言う。それは例えるならば、図書館で本を借りるような感覚で利用してほしいと、社長は語る。

対等に接するという取り組みはとても重要だ。支援される側にしてみれば、誰も好き好んで貧しい生活を送っているわけではない。もし食べ物をもらう際、相手から「施してあげている」ような態度を感じてしまったら、二度と頼ってくれないかもしれない。自尊心を傷つけない工夫というのは、あってしかるべきだと思う。

 

余談だが、かつてNHKで放送されていた教育番組「できるかな」で有名なノッポさんは、子供たちのことを「小さい人」と呼んでいた。彼らと話すときはその背丈までしゃがみ込み、優しくコミュニケーションを取るのだという。「もしかしたら、この子は僕よりすごい人かもしれないから、子供相手でも必ず敬語を使うのです。」と、ある番組で語っていたのが印象的だった。

同じ目線になるというのは、相手の立場になって考えるということ。家があるとかないとか、子供か大人かなどは関係ない。距離を縮めようとするのなら、その人の気持ちに寄り添う努力を忘れてはいけないのだ。

 

 

 

 

貧困に喘ぐ子供たちの現実は想像以上に過酷だ。

以前、北千住駅で聞き屋をしていたときに、あるNPO法人でボランティアをしているという50代の女性が来たことがあった。彼女いわく、足立区は23区内でも特に平均所得が低く、子育てが満足に出来ない家庭が年々増えているため、そうした世帯への支援が急務なのだという。

衣服が清潔でない子、いつも極端にお腹を空かせている子、学校の勉強の遅れが著しい子など、その実情を聞いて、いささか胸が締め付けられるような思いがした。

 「あなたとっても優しそうだから、きっと向いているわ。よかったら一度来てみない?合わなければ、辞めても全然かまわないのよ。」

僕の聞き屋の活動をえらく買ってくれたようで、ボランティアに興味があれば是非来てみてほしいと、法人名を教えてくれた。しかしながら児童養護施設にいたときの若干のトラウマと、安易な気持ちで片足を突っ込んでいいのだろうかという葛藤で、結局連絡せずに今日に至る。もしあのとき参加していれば、きっと番組のような場所で子供たちと触れ合い、その様子を直接肌で感じることが出来たのだろう。

 

*  *  *

 

話は戻って、番組が終わりに近づいた頃、不自然な光景が目に飛び込んだ。お弁当を取りに来れない人たちのために家まで届けるというのだが、あるガラス加工会社の社長が配達を手伝うため、ベンツでやってきたのだ。

「パチンコや競馬なんかしてたら、彼らに申し訳ないと思ってね。それで、やってます。」

普段ギャンブルをする人なのか、そう話しながら淡々とお弁当を運ぶその姿に、得も言われぬ違和感を覚えた。

 

人の役に立つことをしているのは間違いないけれど、この方が生活困窮者と対等な立場で接しているとは、ちょっと思えなかった。富裕層の代名詞とも言える高級外車でやって来て「よかったらどうぞ」と言われても、果たしてその“善意”は気持ちよく受け取れるだろうか。自分だったら、あまりいい気持ちはしない。

仮に自分の自尊心や承認欲求を満たすのが目的だったとすれば、それはもはや善意という名の笠を着た、単なるナルシシズムである。例の社長の場合、奉仕活動をすることによって自身の贅沢な暮らしを戒めていたり、ある種のカタルシスを得ようとしていたのだろうか。そこには富裕層という絶対的な安全圏にいるがゆえの心の余裕というか、不遇な人々の存在で自身の幸福を再確認しているような、そんな感情が見え隠れしていた。

 

僕の分析が合っているかどうかはわからない。ベンツで来ようが何だろうが、ボランティアに変わりはないのであれば、単純に美学の問題なのかもしれない。

 

親切、優しさ、社会貢献、いわゆるそれらのワードを、彼らが「ボランティア」という分かりやすく賞賛されるもので抽象化するのだとすれば、僕はそれによって捨象される部分、つまり傍目には見えない行動で勝負をしたい。そういう美意識を持ち続けたい。

 

徳を積んだ人というのは、言葉では表現出来ない独特の輝きを放っている。そういう人に、僕はなりたい。