聞き屋のたぬ吉

アラサー会社員たぬ吉の、心のスキマを埋める旅

保毛尾田保毛男問題を語る

くだんの騒動について結論は出ないまま、世論は終息の一途をたどっている。LGBT当事者としてブログに取り上げる予定が、忙しくてなかなか書けずにいたけれど、ようやく考えがまとまったので文字に起こすことにした。タイムリーに発信できなかったことが悔やまれるけれど、宜しくお付き合い下さい。

 

 

すでにツイッター上では意思表示をしているけれど、改めてこの問題に関して僕はかなり否定的な立場を取っている。各方面からテレビ局に抗議が入ったことに関して「騒ぎすぎだ」という意見にも、大きな異議を唱える。

とは言うものの、番組が放送されていたのは30年前。当事者性がない上に番組を知らずに批判するのはまずいので、まず始めにyoutubeで拝見することにした。

 

いくつか見た結果、有り体に言うと一体何が面白いのかまったく分からなかった。それと同時に、これが面白いという感性の人とは絶対に仲良くなれないだろうな、とも感じた。

コントの中では、それってどうなの?と思う表現が多々あったけど、保毛尾田保毛男というキャラクターについての議論は一旦置いておく。第一に着目すべき点はそこではなく、「ホモ」というワードを何のためらいもなく使用したことに問題の本質があるのでは、と指摘する。

 

まず、肯定派の意見としてはこんなものがある。

 

・ホモやオカマはダメで、ゲイやオネェはなぜOKなのか

・自分もLGBTだけど、周りにはこの件で嫌な思いをした人は一人もいなかった

・チビ、デブ、ハゲはネタとしてよくて、LGBTだけはなぜNGなのか

 

言いたいことはわかる。

まず、ホモやオカマはダメで、ゲイやオネェはなぜOKなのかという意見。ミッツ・マングローブ週刊朝日の連載で同様の疑問を呈していたので、参考までに拝見した。このコラムについては突っ込みどころ満載なので後述するとして、本題の質問には自分なりの考えがある。

確かにゲイとホモ、オカマとオネェはそれぞれ同義で使われがちだ。当事者でない人からすればどっちでもいいじゃないか、という意見があるのも無理はないが、それにはこう反論させてもらう。

 

例えばコンビニのトイレなどで「いつもきれいにご利用いただき、ありがとうございます」という貼り紙を見たことはないだろうか。自分が小さい頃は「トイレはきれいに使うこと」とか「きれいにご利用下さい」という貼り紙が多かった記憶があるけど、いつの間にかこの文言が一般的になっていたことに気がつく。きれいに使えと指示をするよりも、感謝を伝えたほうが効果的だからなのだろう。

 

また、ここ10年ほどで、“痴呆症”という言葉をめっきり聞かなくなった。お年寄りのボケを意味する病名なのは言うまでもないが、現在では“認知症”という言葉が一般的になっている。

これは厚生労働省が「痴呆という用語が侮蔑的な意味合いを含んでいることや、症状を正確に表していない」として、用語による誤解や偏見の解消を図る一環から検討。2004年12月に「痴呆」に替わる呼称として「認知症」が最適としたためだ。

 

その他にも障害者という漢字を「障がい者」または「障碍者」と表記したり、同じ意味合いでも言葉を変えるだけで人々の意識が変わるというのはよくあることだ。

 

自由学園の創設者・羽仁もと子が、「あなた方には、脱いだ履物を揃える自由があります」と生徒に説いていたのは有名な話だ。靴を揃える自由があるということは、揃えない自由もあるということ。どのように自由を行使するか、人生は常に選択の連続で、その中からよりよく生きるための選択をすることが、ひいては大人であり教養のある人だと氏は語っている。

 

過去の誤謬を認めるのは勇気がいるし、今まで罷り通っていたもの、常識と思い込んでいたものを刷新するのは根気がいる。けれどそこから前進をすることで一人でも傷付く人を減らせるのなら、規制ないしは変更するのは致し方ない。本来はこうした相手を思う気持ちや努力を「優しさ」や「思いやり」と呼ぶのではないだろうか。

 

話を冒頭に戻すと、ホモセクシャルというのはもともと欧米諸国で同性愛者全体を指す言葉として使われており、のちに男性同士の同性愛について差別的な意味合いで使われるようになった蔑称だ。これを肯定的に再定義するため、ゲイという言葉をあてがったとされている。gayは辞書で調べてみると「陽気な、快活な、幸せな、朗らかな」と表記されていて、このことからも言葉によってイメージを払拭させたことがよくわかる。

こうしてネガティブ要素が排除された背景を知れば、ホモという言葉を安易に使うのは適切でないことがわかるだろう。

オカマに関しても、もとは江戸時代に肛門という意味で使われていた俗語だ。転じてアナルセックスで商売をする人を指すようになり、今日のような意味合いに変化した説が有力とされている。なのでこちらも使わないほうが賢明だ。

 

 

ミッツ・マングローブのコラムについても少し触れる。

 

ミッツ・マングローブ「保毛尾田保毛男を狩る、分別できない人たち」

 

まず「当事者同士が裏切り者にならないよう気を使い合う」なんてしれっと書いてるけど、マツコのようなカリスマ性がない彼女は完全にLGBTの要素だけで食っている人間だ。マツコは元々ゲイ雑誌バディの編集部出身でコラムニストという肩書きがあるが、ミッツはただの女装家。ゲイやLGBTに関する情報を切り売りするだけの“ゲイ能人”である。

 

自分は一般人だし、大した影響力もないので書くけれど、ゲイの世界ではノーパンスエットナイト(通称ノースエ)というイベントがある。着エロ要素の強いイベントだけに当事者同士でこっそり楽しんでいるにも関わらず、ダウンタウンの何かの番組でミッツがこのノースエのことを喋ったのだ。自分はこの番組をリアルタイムで見ていてふざけんなと思った。

「完全に野郎だけのイベントで~」

「化粧してると入れないんですよ~」

テレビで好き勝手喋っているくせに、どこが当事者に気を使っているのだろうか。こいつの商売のために内輪の情報を晒される一般ゲイの気持ちを考えたことがあるのだろうか。寝言は寝てから言ってほしい。

 

そして自ら、「『分別』というのは、無数のグラデーションの中で、その都度その都度『判断』をすることです。それが道徳であり、秩序なのだと思います。」とも語っている。

これは先に紹介した選択の自由の話とまったく同じことだ。それならばホモやオカマが時代遅れだということになぜ気付かないのか。素晴らしいことを書いているのに、なぜ逆説的に話を進めるのかわからない。

 

「正面切って『ホモ』だ『オカマ』だと言われ、それに立ち向かう方が『男らしい』と判断する子供でした。」とも語っているが、これはまさにステレオタイプな男の幻想であって、強さと強がりはまったくの別物だ。

自虐の境地に達している人は自らホモと言えたり、他人に言われて平気なのかもしれないけど、それが本当の意味での男らしさと言えるのだろうか。自分も我慢したからお前も我慢しろというニュアンスが含まれていて、優しさがない。「男の子なんだから泣かないの」と残酷に言って聞かせる母親よろしく、そこに泣いてはいけない正当な理由は一つもない。

 

男の子は本来とても弱くて繊細で、傷付きやすい生き物だ。不器用で強がることしかできないから、それを皆が男らしさだと勘違いしているだけ。理不尽さを受け入れる=男らしさという風潮に、みんな内心プレッシャーを感じていると思う。

ミッツが本来優しい人間なのはもうとっくにバレているんだから、いい加減強がりや毒舌キャラは卒業したほうがいい。

 

 

次に触れたいのが、関西圏ではドラァグクイーンとして有名なナジャ・グランディーバのコメントについて。

 

 

 

東京MXの5時に夢中に出ていたときから、派手な見た目とニヒルな喋り方のギャップが面白くて気になっていた。このところキー局でも頻繁に見かけるようになった、いわゆる女装家の注目株だ。

だが、正直もっと頭のいい人だと思っていただけに、動画のコメントは非常に残念なものだった。この人もやはり商売なのだろう。局側への忖度が丸出しで、人間性が垣間見えた気がした。

 

「あたしの周りでは不快な思いをした人は一人もいなかったですよ」って、それはそうかもしれないけど、あなたの周りの人間関係だけで世の中が成り立っているわけじゃない。ちょっと考えれば、当時この番組によって心を痛めた人たちがいることくらい、容易に想像が出来るはずだ。

そして保毛尾田保毛男のキャクターについては「何なら石橋さんがあの格好でLGBTを応援する番組の司会とかやれば、よりLGBTが身近なものに感じられていいと思う」とまで発言した。

いやいやいや、馬鹿も休み休み言ってほしい。カリカチュアでしかないあのキャラに、これ以上一般のゲイ全体がシンボライズされてはたまったものじゃない。今後あんなものが流行るようであれば世も末だし、商売を正当化するためのエクスキューズをいくら並べたところで、申し訳ないが一つも共感できない。

 

ちなみにウーマンなんとかの村本なにがしが言った、「チビ、デブ、ハゲはネタとしてよくて、LGBTだけはなぜNGなのか?」という疑問については、そもそもチビ、デブ、ハゲが容認されていると思っている時点でモラルを疑うし、LGBTとはまったく性質の異なる事案であることを理解していない。この辺りについては、より詳しく書いてある記事を見つけたので参考までに。

 

 

junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp

 

 

もう一つ。

寺岡佑介(てらゆう)さんというゲイのミュージシャン?の方の動画が気になったので、これについても少し書く。

 

 

 

 

彼は動画の中で「差別が0になるなんてことは絶っっっ対にないけど、0に近づけるためにバンドをやっている」と語る反面、「今回のことで騒ぐのはユーモアがない、異議を申し立てることでLGBTってめんどくさい人たちなのかなって思われてしまう」とも語っている。

まさに二律背反、偽善、きれいごと。

要はLGBTで商売したいやつの保身でしかなく、弱者に寄り添おうとか、人の痛みを理解しようという姿勢が微塵もない。だからこんな矛盾を臆面もなく晒せるのだ。

 

さらには「むしろゲイであることで相手の興味を引けるから、差別はあったほうがいい」と、自ら動画の中で詭弁を露呈してしまっている。それはつまりLGBTアイデンティティであると声高に叫べば、判官贔屓で多少注目してもらえるだろうくらいにしか考えていない証左だ。啓発活動をしているように見せかけて、手っ取り早く自分を売り込む手段としてLGBTを使っているだけ。実に姑息である。

 

結局は自分が目立つための環境づくりをしたいだけに聞こえるし、世の中にいるLGBT全てがあなたのような目立ちたがり屋だと決めつけないでいただきたい。甚だ迷惑である。

 

ついでに言わせてもらうと、彼のやっている「HIV」というバンド名や「ゼロディスクリミネーション」という曲名一つ取っても直接的すぎて何の想像力も沸かないし、知性や思慮深さというものがまるで感じられない。口幅ったいことを言うけれど、もっと表現力を磨いたほうがいい。自分はミュージシャンではないけれど、非常に安っぽいし、これでは恐らく万人の心に響かない。それにまず言行不一致がある限り、今後バンドの存在自体が大きく揺らぎかねないので、早いところ修正したほうが良さそうだ。

もういっそのこと“GIZEN-BOYZ”とでも改名したほうが、あなたの言うところのユーモアがあっていいんじゃないかと個人的に思います。是非とも検討をお願いします。

 

 

いろいろ批判しましたが、LGBTで食っていながら今回の騒動に首を突っ込んだ人たち、特に番組を擁護する側に回った人たちは、どんなにもっともらしいことを語ろうと木に竹を接ぐようなもので、もれなく二流と言って差し支えない。石橋貴明本人も、恐らく下手にコメントを出すと今後身動きが取りづらくなるのは分かっているのだろう。批判されるのは承知の上で沈黙を貫いているのだとすれば、ある意味クレバーだと言える。

 

個人的に頭がいいと思う人の特徴は、弁が立つというよりも、常に黙るタイミングを心得ている人たちのように思う。雄弁は銀、沈黙は金。案の定今回の件に関して業界のご意見番であるマツコ・デラックスは一切見解を述べていない。そういう意味では、やはり彼女は一流であると言わざるを得ない。

 


批判的な立場でいるものの、一方で保毛尾田保毛男が当時のゲイカルチャーに風穴を開けたという見方もあり、それが現在のLGBTブームに一役買っているのなら皮肉なものだ。注目を集めたという意味ではたしかにそうだけど、それはきっと一部でいじめられたり傷つけられた人たちの犠牲の上に成り立っていて、悲しい思いをした人は確実にいる。手放しで懐かしがったり面白がるのは、マジョリティーであることに安心しきっていたり、人の痛みに鈍感なやつらだけだ。

 

総括すると、そういう意味でこのキャラクターは負の遺産だし、僕らはそのことを胸に刻まなければいけないと思う。

テレビはつまらなくなったのではなく、昔がやりすぎだっただけである。斜陽産業と成り下がった今、テレビというメディアの存在意義が真に問われている。