聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

ドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』を見た当事者の感想

今週火曜日からフジテレビ系でスタートしたドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』、略してケンカツ。


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タイトルには日本国憲法の第二十五条の条文がそのまま引用されている。

 

〔第二十五条〕

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

上記から推測できる通り、このドラマは僕が今年の5月に利用を開始した生活保護から材を取った内容となっている。

しかしながら、放送当日は新宿で友人と呑気に水餃子をつついていて、うっかり見逃してしまっていた。

当事者としてどうしても見ておきたくて、動画を探したところ、幸いGYAOで無料試聴することが出来た。せっかくなので初回の感想をまとめてみようと思う。

※下記リンクより飛べるので、未視聴の方は是非。

 

gyao.yahoo.co.jp

 

*   *   *

 

・あらすじ

主人公の義経えみるは大の映画好きで、学生時代は映画監督を志し、サークル活動に没頭する日々を送っていた。しかしひょんなことから挫折を味わうと、その反動から「安定」を求めて就活に励んだ結果、晴れて公務員として採用が決定。そして東京都東区役所の生活課へ配属されると、110世帯もの生活保護利用者を担当するケースワーカーとなった。

 

担当部署の棚には、世帯ごとの内情を詳細に記録した大量のファイルが保管されていた。その一つ一つをやおら開いてみると、そこには一般的な家庭で「健全に」育った者にはにわかに信じ難い、ショッキングな内容が数多く見受けられるのだった。

 

覚醒剤取締法違反で逮捕、夫の暴力から逃げるように別居

・長年虐待を受けていたことによる自傷癖、心的外傷後ストレス障害

・電車内で下半身を露出し逮捕、保護停止

 

あまりの悲惨さに絶句していたのも束の間、彼女の真面目で優しい性格が仇となり、闇を抱えた利用者たちに次々とキリキリ舞いさせられてしまう。ついには「この仕事、向いてないんじゃないか……」と、一人思い悩むようになってしまうのだった。

 

・ケース1 利用者の自殺

業務開始早々、えみるの担当する平川という男がビルから飛び降り自殺をしてしまい、新人ケースワーカーとしてのっけから手痛い洗礼を浴びせられる。

彼が保護を申請するに至った経緯を調べてみると、帳簿にはこんな内容が記載されていた。

 

〔ケース記録〕

平成24年6月に主の妻が癌を患う。

平成27年8月末まで就労していたが、妻を在宅療養するため勤めていた会社を退職し、介護に専念するも平成28年6月に他界。

貯金も底をつき、平成28年9月保護申請に至る。

 

上司の半田とともに平川の“終の棲家”となってしまったアパートを訪れると、まず目に飛び込んできたのは、びっしりとふせんが貼られた無料の求人雑誌だった。

奥にある6畳の和室は小綺麗に整理されていて、机の上には奥さんとの仲睦まじいツーショット写真が飾られていた。そこで初めて平川の顔を見たえみりだったが、担当部署で自殺の一報を聞いた際、同僚がふと漏らした心ない一言が脳内でフラッシュバックする。

「自分が抱えてる1ケース減って、よかったじゃん」

 

(それを言ってしまうと、何か大切なものを失う気がする……。)

 

義憤に駆られるように、彼女は半田に向かってこう問いかけた。

「平川さん、努力してましたよね?生きようとしてましたよね?110ケースあろうが、国民のお金だろうが、生きようとしてましたよね!?」

ケースワーカーは命を守る仕事ですが、残念ながら守りきれないときもあります。」

「でも、私……」 

 

やりきれない現状に、まったく二の句が継げないといった表情で立ち尽くしているのだった。

 

・ケース2 債務整理

阿久沢という利用者と面談をした際、「1日1食しか摂っていない」と話していたことを不審に思い、えみるが一人で男性宅を訪問するシーン。

絵に描いたようなボロアパートで倹しく暮らす彼だったが、催告書なるものが冷蔵庫に貼ってあるのを目ざとく見つけられてしまい、ついに消費者金融から多額の借入れをしていることを告白する。

「借金があると、生活保護を貰えないと思って」

借金があっても問題ないことを説明すると、まずは法テラスという専門業者で債務整理をするよう促した。

 

しかしいくら待っても行動を起こさない阿久沢にしびれを切らし、日時を指定して再度役所を訪れるよう依頼するが、やはり約束の時間になっても現れる様子がない。携帯に電話をしてみると、役所の前まで来たが引き返してしまったとのことで、仕方なく彼の待つ公園へと向かった。

 

「私たちは阿久沢さんを助けたいんです。だから法テラスを勧めるんです。逃げないでください、ちゃんと訪ねてきてください。」

えみるの純粋な思いとは裏腹に、彼はバツの悪そうな顔でアイロニカルにこう洩らすのだった。

「娘でもおかしくない年齢のあなたに、家見られて冷蔵庫の中見られて借金のことも言われて、もう情けなくて恥ずかしくて。やっぱり私のこと見下してますよね、情けないと思ってますよね。」

彼女の年齢によるアウトサイダー性が、余計に彼のプライドを傷付けてしまっていたことを知り、それ以上無理強いすることが出来なくなってしまった。

 

(阿久沢さんの物語、ハッピーエンドに導くために、私はどうすればいいのだろう。)

 

そして再度「あなたのために本気で骨を折る覚悟だ」と体当たりするえみるに根負けして、阿久沢はついに行動を起こす決心をする。

フタを開けてみれば、その借金はとっくに完済されていて、150万円もの過払い金を請求できることが判明。これで彼の生活保護はめでたく廃止となったのだった。

 

・当事者としての感想

第1話のケース毎の印象として、生活保護という重めのテーマを扱っている割には、主人公のキャラクター設定一つ取ってもいい意味で取っつきやすく、比較的ライトにまとまっていたように思う。

特に当事者の呼称を一貫して「受給者」ではなく「利用者」としていたところには好感が持てたし、その利用者を過剰に擁護するでもなく、一般的なマイナスイメージについてもそれなりに触れられていて、公平性にしっかりと配慮している様子が感じられた。

 

しかし一方で気になったのが、保護費を借金の返済に回していたことがバレてしまったシーンである。実際に僕自身のケースと照らし合わせてみると、例えば八王子市では申請が通った場合、制度利用に関する諸々の注意事項が書かれた「生活保護のしおり」というものが配布され、事前に細かな説明を受けることになる。


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 (実際に役所から配布された「生活保護のしおり」)

 

保護費の取扱いについていくつか禁止事項があり、その中に「借金やその返済」がNGであることがしっかりと明記されているのである。


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ドラマの中では、途中ケースワーカーが阿久沢の借金返済についてやや諦めモードだったけれど、あのくだりは端的に言ってあり得ない。実際に保護費を借金返済に充てることは制度の運用上許されないので、最悪の場合、支給停止になってしまうくらいまずいことなのだ。

僕も相談時には90万円ほど借金があったため、担当のケースワーカーから法テラスでの債務整理を勧められた。ここなら一定の要件を満たしていると借金の法律相談などが無料なので、気軽に利用することが可能なのだ。


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(法テラスのパンフレットと、ケースワーカーさんが書いてくれたメモ用紙)

 

ドラマほど懇切丁寧ではないけれど、初回に僕を担当してくれた女性も非常に感じのいい方で、無知な自分にいろいろと分かりやすくアドバイスをしてくれた。実際にどこまで親身に寄り添ってくれるかは、正直担当になるケースワーカーによって大きく異なると思う。

現にこの直後、僕の担当の女性が産休のため、別の若い男性に引き継がれることになったのだけど、これが驚くほど相性が悪くて、残念ながら彼のことは今現在まったく信用出来ていない。顔を合わせるのが憂鬱なくらいウマが合わないのである。


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*   *

 

ドラマの全体的な感想としては、良く言えばバランスが取れていて無難だし、悪く言えばいかにも脚本という感じで、展開がきれいにまとまり過ぎている感はどうしても否めなかった。

きっと実際に生活保護を利用する人は(僕を含めて)もっとドロドロした複雑な事情を抱えているだろうし、えみるのような実直で世話焼きなケースワーカーや、半田のような人間的に出来た上司などは、現実にはそうそう見当たるものではないだろう。

 

次週は早くも「不正受給」について切り込むようなので、今後も引き続き目が離せない展開となりそうだ。

「後のものが先になり、先のものが後になるであろう」

僕が昔預けられていた児童擁護施設には、敷地内にキリスト教の小中学校が併設されていて、山の上にはプロテスタントの教会が建っていた。施設の職員のおよそ半数はクリスチャンで、毎週木曜の夜と日曜の午前中には施設内の子供と職員が全員集まり、教会で礼拝がおこなわれていた。


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礼拝では聖書を読み上げる時間があった。聖書のどの箇所を読み上げるのかは事前に決められていて、各部屋の子供たちが順番で担当するのだけど、中学校に上がって間もなくの頃、その朗読の当番が一度だけ自分に回ってきたことがあった。当日の礼拝で僕が担当したのは、マタイによる福音書の20章にある「ぶどう園の労働者」というお話だった。

 

 天の国は次のことに似ている。ある家の主人がぶどう園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。彼は一日一デナリの約束で、労働者をぶどう園に送った。九時ごろまた市場に行ってみると、何もせずに立っている人たちがいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう』と言った。そこでその人たちはぶどう園に行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。また五時ごろ出て行ってみると、他の人たちが立っていたので、『なぜ何もしないで、一日中ここに立っているのか』と言うと、彼らは、『だれも雇ってくれないからです』と答えた。そこで、主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園にいきなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に、『労働者たちを呼んで、最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい』と言った。そこで午後五時ごろの組の人たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。終わりに最初の組の人たちが来て、それより多くもらえるだろうと思っていたが、彼らも一デナリずつもらった。すると、主人に不平をもらして、『最後の組は一時間しか働かなかったのに、あなたは彼らを、一日じゅう労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じように扱われる』と言った。主人はそのうちの一人に答えて、『友よ、わたしはあなたに何も不正なことはしていない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。あなたの分を取って帰りなさい。わたしはこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ。わたしが自分のものを自分のしたいようにするのが、なぜいけないのか。それとも、わたしの気前のよさを、あなたはねたむのか』と言った。このように、後のものが先になり、先のものが後になるであろう

 

朝からぶどう園の主人に雇われた人は「1日1デナリ」という賃金契約を交わしていた。しかし、それ以降に主人が市場で声をかけた人々には「ふさわしい賃金を払う」とし、具体的な金額を明示しなかった。そして夕方5時ごろに声をかけた人々にいたっては、1時間ほどしか労働をしていないにも関わらず、最終的には朝から働いていた人々と同じ1デナリが支払われた。

 

ここでもっとも重要なのが、「最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい」という言葉だ。通常であれば、先にいた者から順に支払われ、労働時間に比例して、賃金も後に来た者ほど少なくなるはずである。しかしこのお話ではその順序がまったく逆になり、賃金も一律に支払われたため、先にいた者が納得せずに不平を漏らした格好だ。ちなみにここで言う「ぶどう園の主人」とは「神様」のことを指している。 

 

よく考えてみると、朝から労働契約を交わした人たちは、その日ないし翌日の生活は賃金により保証されている。それに対し、途中の時間から雇われた人たちは、その日の暮らしもどうなるか分からない状況で市場に来ていた。彼らは働く時間こそ短かったものの、その分「不安に晒されていた時間」は、朝から雇い入れてもらった人たちより当然長い。特に夕方の5時に雇われた人たちは、ほぼ絶望の中で立ちすくんでいたと言える。

 

つまり神様は、彼らの「絶望していた時間の長さ」を考慮して、後の者を先にしてくださったのだ。われわれの暮らす資本主義社会ではおよそありえない評価が、天の国では当然のこととしておこなわれるのである。

 

ちなみにキリスト教では死後の世界に関して「復活」や「永遠の命」という、仏教で言うところの輪廻転生とはまったく異なる概念が信じられている。これには生前に良い行いを積極的にしたかどうかということはあまり考慮されないし、早くから信仰していれば優遇されるといったものでもない。むしろ罪深い人ほど優先して救ってくださるという、独特の気前のよさを持ち合わせているのである。

 

さっき近所のスーパーで美味しそうな“ぶどう”を見かけたので、衝動的にこの話を書きたくなったのだった。

自分の言葉を探す旅

今朝、AIR-J'氏と神原さんの以下の記事を立て続けに読ませていただいた。

 

airj15.hatenablog.com

 

mituteru66.hatenablog.com

 

自分もちょうど昨日こんなツイートをしたばかりで、二人と似たようなことを思っていたのだった。

 

 

 

 

この際なので、僕も忌憚なく書かせてもらう。

 

世の中には『普通』とか『常識』の枠内にしっかり自分の居場所を確保しておきながら、それでいて他人より変わっているとか、不幸な境遇なのだという具合に、自分を個性的にパッケージしたがる人種が存在する。しかし彼らは基本的に人から嫌われたり、周囲から浮いてしまうリスクを冒してまで何かを主張するような気概はまったく持ち合わせていない。

 

そうした人間が『ガチのアウトロー』とうっかりエンカウントするとどうなるか。すぐに対抗意識こそ発露しないものの、彼らなりのやり方で背中に小石を投げてくるという構図はもはやお決まりのパターンで、そうした“柔らかい衝突”はこれまでも何度か経験している。

 

そして不幸自慢では勝てないと踏むと、踵を返すように、今度は自身が『その他大勢』であることにアイデンティティを見出だそうと奮起するのである。要するに、それまで周囲に比べていささか変わり者だったり、厭世的なキャラクターを売りにしていたため、自分より強烈な個性を持つ人間にお株を奪われることが面白くないのだろう。その当て付けとして、保険をかけておいた『普通』にすり寄り、相手との対称性を全面に押し出すことで溜飲を下げようとするのである。

 

今となっては某氏が某ブロググループを教えてくれたのも、某ライングループが立ち上がったのも、もしかすると『人数を従えている』ことを自慢したかっただけなのではないか?とさえ思ってしまう。それはまるで「自分はこんなすごいコミュニティを有しているんだぞ」と主張するかのように。

 

*   *   *

 

僕にはもうすぐ付き合って5年になる相方がいる。アプリで知り合っているということもあり、お互いの友人関係を紹介するでもなく、客観的にはとても閉じた世界で関わっているように見えるかもしれない。それ故に、互いに興味をなくしたら終わってしまうという、非常に危なっかしい関係であるという事実はあえて否定しない。

 

でも、だから何だと言うのだろう。

 

そんな綱渡りのような関係であったとしても、現に僕らは4年と8ヶ月という長い時間を共に歩いてきた。彼が偶然僕のことを赤いアプリで見つけてくれて、メッセージをくれて、二人でボウリングに行って、その1週間後に告白されてから、丸5年が経とうとしている。お互いそれなりに依存し合って、承認し合って、どうにかここまでやって来れたのだ。それは彼にゲイ友達がほとんどいなかったり、ツイッターをしていなかったり、ほぼノンケ生活をしているということが僕の安心に繋がっている側面もあった。

 

しかし、それでもふとした瞬間にやってくる『孤独』とは、自分自身で折り合いをつけなければならない。そういうとき、リアルの世界に活路を見出だすか、非リアルの世界に活路を見出だすかは、その人の性格によって異なってくる。このような場合にやたら人数を集めないと行動を起こせなかったり、群れることで孤独の穴埋めをしようとする人間は、私生活が派手か地味かに関わらず、根っこの部分では『パリピ』体質なのだと思う。『文化系パリピ』がタチが悪いのは、渋谷あたりにいそうなウェーイ系を心底馬鹿にしながら、その実やっていることは彼らと大して変わらないという滑稽さにある。

 

例えばBUMP OF CHICKENRADWIMPSは何かにつけて比較されることが多い。しかし彼らの決定的な違いは『ガチのオタク』か『ネクラぶっているリア充』かというところにあるのだと、ある友人が分析していた。有り体に言えば等身大のメッセージか、作り込んだ商業音楽かの違いである。

 

前々回の記事で某氏に噛みついた理由も実はそこで、彼のツイッターはそれなりに面白いのだけど、「あぁ、作っているな」と感じる面白エピソードを頻繁に呟くところに違和感があったのだ。これはもう虚言癖と言って差し支えないレベルで話を作り込んでいると感じていたので、見ていて恥ずかしいを通り越して、可哀想になってくるほどであった。ツイッターがさながら承認欲求の吹き溜まりと揶揄されてしまうのは、常習的にそういう使い方をしている人が一定数いるからなのだと思う。

 

*   *   

 

一昔前はネットと言っても使えるサービスは限られていたから、ネットとリアルの世界は別物という認識はあながち間違いではなかった。しかし2018年現在、もはやネットとリアルは地続きであるとさえ言える状況下で、『分けて考える』という発想自体が時代遅れではないだろうか。ワンマンな中小企業に限って社長室の壁に『温故知新』なんて額縁が飾ってあるように、懐古主義も行き過ぎれば単なる“老害”になりかねない。

 

この手の格言めいた空理空論は、書店で平積みされている安い自己啓発本にいくらでも落ちている。SNS断ちだの仮想通貨だのミニマリストだの、こうした無責任なワードは中身が空っぽな奴ほど響くのだ。良書に出会うコツは本をたくさん読むことではなく、何を“読まないか”である。豆知識は読書量に比例するかもしれないが、自分のポテンシャルを底上げしてくれるような本というのは、実はそんなに多く出回っていないものなのだ。

 

借り物の言葉で何かを言った気になるのは確かに楽ではあるけれど、文章とは推敲することに意味があるのだ。自分の考えを文章に起こすために、何度も何度も推敲して表現を絞るからこそ『自分の言葉』になるのである。だから僕自身は文章を書くことを止めないし、これからも表現力を磨く努力を続けていきたいと思っている。

 

余談だが、自分の言葉と言えば、昨日某ブロググループに童貞見聞録というブログを書いている方が新しく参加されているのを発見した。覗いたら文章がめちゃくちゃ上手くて、つい10記事ほど連続で読んでしまった。恐らくあのグループの中で一番読める文章だと思う。これから彼の更新が楽しみである。

 

*   *

 

最後に某氏に。

あまり受け売りで物事を語らないほうがいい。そして、できれば文章は書き続けたほうがいい。自分の言葉を探す旅は、君自身の成長に必ず繋がるはずだから。

 

 

 

何があんたの幸せとか 

正解と不正解の境界線だとか

結局決めるのはあんた自身で 

自分で自分の首を絞める事はないよ

(amazarashi「あんたへ」2013年)

映画『万引き家族』に息を飲む

水曜日の夕方、立川駅万引き家族を観た。

予告編を見た人であれば、この映画がハッピーエンドになるはずがないということは、もれなく予想していたに違いない。僕もはじめから「この家族がどのように崩壊するのか」という点に注目しながらスクリーンを見つめていた一人である。

 

 

物語は父親と息子らしき二人がスーパーで万引きをするシーンから始まる。戦利品を片手に帰路につく途中、あるアパートの前に座り込む少女に偶然出会うと、彼女をも“万引き”するかのように自宅へと連れ帰ってしまう。狭い長屋で身を寄せ合うように暮らしていたのは、一見すると父と母、姉、息子、祖母として認識できる、貧しくもそれなりの絆で結ばれた五人の『家族』であった。

 

いの一番に気になったのは、母と姉らしき二人の年齢がそう離れては見えないことだった。最初は連れ子同士の再婚かと思っていたのだが、息子・祥太が両親のことをお父さん、お母さんと一度も呼ばないことにも違和感を覚えた。そして物語が進むにつれ、彼らが血の繋がりのない『かりそめの家族』であることが次第に明らかになっていく。

 

全員で海へ出かけるシーン。

波打ち際で無邪気にはしゃぐ五人を、祖母・初枝が浜辺から穏やかに見つめていた。そのどこにでも転がっていそうな幸せの光景は悲しいほど刹那的で、分断の魔の手がすぐそこまで忍び寄っていることを予感させた。

 

翌朝、初枝は突然亡くなった。何の予兆もなく、苦しむこともなく、冷たい体になっていた。

「こーゆうのは順番なんだからさ」

妻・信代のにべない態度とは対照的に、唯一姉の亜紀だけが静かに涙を流していた。

初枝の年金目当てに同居していた夫・治は、死亡によってその支払いが止まることを恐れ、遺体を庭に埋めてしまおうと画策した。

「これは内緒だぞ、俺たちゃ家族だ」

おばあちゃんは最初からいなかった、自分たちは最初から五人家族であったのだと、子供たちに箝口令を敷いた。この辺りから、祥太の表情に少しずつ陰りが見え始める。

 

あまつさえ信代のパート先では従業員を一人クビにする必要があると告げられ、対象となった信代ともう一人の女性のどちらが退職するか、二人で話し合って決めるよう迫られる。すると彼女はこう言った。

「黙っててあげる。あたし、見ちゃったんだよね。事件の子と一緒に歩いてるの」

彼女に脅されていることに気付いた信代は、潔く身を引く覚悟を決め、口外しないよう念を押した。

「分かった。そのかわり、しゃべったら殺す」

 

彼女の口から誘拐の事実が漏れ伝わるのかと思いきや、最終的には祥太がスーパーでわざと見つかるように万引きをしてしまい、今までの悪事がすべて明るみになってしまった。これにより一家は解体へと追い込まれることとなるのだが、はじめから見えていた結末とはいえ、何とも無慈悲である。

 

そして警察の取り調べで待っていたのは、思わず耳を塞ぎたくなるような、怒濤の『正論』攻撃であった。世の中の正しさを眼前に突きつけられた彼らの行き場のない悲しみは、まるでロールシャッハの模様のように、僕の中の『正しさだけでは折り合いのつかない感情』と重なって、視界が滲んだ。

死体遺棄、重い罪ですよ?」
「捨てたんじゃない……捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは、他にいるんじゃないですか?」

 

捨てた人が、他にいた。

 

信代が伝えたかったのは、きっと初枝のことだけではなく、彼女を含めたこの家族全員がすでに誰かに捨てられていたということではないだろうか。僕はこの『捨てた人』とは、まぎれもなく『日本社会』のことを指しているのだろうと推測した。

 

正しさに打ちのめされ、それでも虫の息で訴える彼らの“三分の理”は、決して単なる開き直りなどではなかったはずだ。社会の底辺に生きる悲しみを、自分たちと社会との間で断絶されてしまった『何か』を語るには、あまりにも言葉が足りな過ぎたのだ。

 

犯罪は犯罪じゃないかと、この作品を無条件に批判できる人たちは、きっとあらゆる思考が停止してしまったリアリストなのだと思う。僕はそういう人たちを『心の冷たい人』と呼ばせてもらうことにする。

 

この映画は、現実世界だけでは幸せになれない弱者たちの姿を見事に描き切った、稀有な作品であると言えよう。

 

 

 

ねえママあなたの言うとおり

他人は蹴落として然るべきだ

幸福とは上位入賞の勲章

負けないように 逃げないように

目を覆い隠しても 悲鳴は聞かされて

耳を塞いでも 目をこじ開けられて

 

 (amazarashi「性善説」2013年)

低脳先生の犯行声明と、殺される僕の心

おいネット弁慶卒業してきたぞ

改めて言おう

これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな)

俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ

「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな?

「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?

ただほぼ引きこもりの42歳はここで体力が尽きてしもうた

事前の予定では東京までいってはてな本社にこんにちはするつもりだったが、もう無理

足つってるし

なんだかんだ言ってはてなというか増田が俺をネット弁慶のままで食い止めていた面もあるしなあ

逆に言うと散々ガス抜きさせてもらった恩がある

はてブと通報厨には恩など欠片もないが

てことでこれから近所の交番に自首して俺自身の責任をとってくるわ

足つってるから着くまで30分くらいかかるかも

はてな匿名ダイアリーより/現在は削除済み)

 

*   *   *

 

今このブログを読んでいる人たちは、他人に対して〇意というものを抱いたことがあるだろうか。何かで気持ちのぶつかり合いが起きたとしても、普通はなかなかそこまでの感情にたどり着かないかもしれない。しかし、僕は頻繁にこの〇意に近い感情が沸いてしまうことがある。今日はその一例を紹介する。

 

凶器と聞いて、通常真っ先に思い浮かべるのは、ナイフや包丁、ハサミやカッターなどの刃物が代表的だろうか。しかし、そんなものよりもっと身近で、手っ取り早く、刃物なんかよりもより深く人を傷付けられる道具がある。

 

それは「言葉」である。

 

僕が目の前にいる誰かに「死ね」と言ったところで、びくともしない。正確に言えば、言葉が人を殺すのではなく、言葉で「相手の心」を殺すことができるという意味である。からに、多くの殺人事件において、殺人犯に〇意を抱かせる最大の原因は「言葉」であると言って差し支えない。

 

しかもやっかいなことに、この言葉の中には「無言」や「無反応」も含まれる。ストーカー殺人の場合などがこれに顕著である。

 

例えばネットで見かけるルサンチマンも、ただ書き込めば終わりなのかというと、そう単純なものでもない。一方的な攻撃と見せかけて、大抵の場合は相手からの反応を待っている。悲しいかな、世の中にはこの「反応」が居場所でしかない人もいるのである。そして欲しかった反応が得られないとき、あるいはその反応が予想以上に心ないものだったとき、攻撃を仕掛けた側の心は吹き消されるようにして殺されてしまう。

 

心が殺されるとはどういうことか、考えてみてほしい。

 

低脳先生は、おそらくHagex氏よりも先に心を殺されていた。「またあいつだ」「あいつを黙らせろ」「低脳先生が出たぞ」不特定多数の人々から、通報という形をとって封殺されていた。低脳先生は不器用で語彙を知らないだけで、きっと彼が言いたかった言葉は「低脳」などという低脳な言葉じゃなかったはずだ。もっと違う何かを伝えたかったのだろう。彼が殺人をしなければならなくなったのは、その言葉の裏の裏の裏の裏まで、傍観者たちに読み取ってもらえなかったことが原因なのだ。自分自身でも言語化できない裏の裏の裏の裏の言葉を持って、ただ議論がしたかっただけなのだ。

 

「俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな)俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ」

 

敵対してくれているうちはまだいい。しかし早々に「厄介者」と見限って議論の場から去り、無言、あるいは水面下で自分を排除しようという動きを取られ、相手にされなくなることほど、生きていてみじめなことはない。僕自身、子供の頃から問題児として扱われ、あらゆる人々から徹底的に排除されてきたから、彼の気持ちは痛いほどよく分かる。その人を無視したり、いないものとして扱ったり、「またあいつが何か言ってやがる」といった具合に、聞こえよがしに呟かれたり。または普通に関わっているように見せかけて、影では自分を嘲笑の対象として、仲間内で目くばせをしながらクスクスと笑われているような状況だったり。当人にとって、こんなにみじめなことはない。

 

昨日、withnewsで僕の生活保護に関する手記を掲載していただいた。

 

withnews.jp

 

今回なぜwithnewsで手記を書くことになったかと言うと、前回担当してくださった原田さんが僕のブログの生活保護の記事を読んで「うちで生活保護の記事、書いてみる?」と打診してくれたのだ。僕は「是非書かせてください」と即答した。

 

原田さんからは再三に渡って「ここまで書いて大丈夫?無理しないでね?」と念を押されまくっていたけれど、それでも世の中にこの文章を出したのには理由がある。肯定も否定もどちらでもいい、何でもいいから自分に反応を示してもらって、今、僕が「生きている」ということを実感したかったのだ。生活保護を申請してからというもの、ほとんど部屋で引きこもっていたものだから、この手記に対して反応をもらえたことは非常に生きる活力となった。

 

僕はブログの過去記事で、数字なんか求めていないとうそぶいたことがある。分かる人が分かってくれればいいのだと意地を張っていたのだ。しかし本当は内心、ブログの記事を上げれば毎回たくさんのスターがついて、ブックマークされて、シェアされるような人たちがとても羨ましかった。いわゆるアルファブロガーと呼ばれる人たちだ。自分をパッケージするのが苦手な僕は、ブログの月刊PV数も少ないし、コメントもあまりもらえない。彼らに比べて自分はなんてちっぽけなのだろうと、つまらないことで悲しくなったり、落ち込んだりしていた。それなのに羞恥心だけは一人前で、あからさまなアフェリエイトや、自分から拡散する行為はポリシーに反するため、不用意な宣伝は極力避けていた。だけど、やっぱり僕のことを見てほしい気持ちは捨てられず、今回の手記にブログのURLを貼ってもらうことにしたのだった。

 

はてなの某ブロググループに入ったのは、今年の2月頃だったと思う。そこにいる人たちの興味を引くために、入った当初はLGBT関連の記事をたくさん書いた。わかったような顔をして、達観したようなふりをして、意識の高そうな語彙を散りばめて、何かを必死に装った。でも、長続きはしなかった。

 

そのうち誰かがライングループを立ち上げてくれた。そこで、僕も入れて下さいとメールを送った。仲間に入れてもらって、オフ会なんかもやって、仲良くなった気になっていた。だけど、ある日ブロググループにいた誰かが、僕の過去記事を引用して批判的なことを書いた。いくらなんでも分かりやすすぎると思い、彼のコメント欄に「これって僕のことですよね」と突っかかった。彼は「そんなつもりはない」とはぐらかした。

 

そこで、全く本心なんかじゃないことを書いた。「二度と僕のブログには、来ないでください」と。そしたら、丸ごとやり取りを削除されてしまった。

 

僕の存在を消されたような気がして、その瞬間に〇意みたいなものが沸いてしまった。だから、名指しで彼を批判した。僕のことを書いた記事にスターを付けている人たちも全員敵だと思い込み、片っ端から読者登録をはずし、ツイッターもブロックした。「そんなつもりじゃなかったんだよ」って、言ってほしかった。本当に面倒くさい奴だと思った。

 

一人だけ、コメント欄に「誤解を与えて申し訳なかった」と言ってきてくれた人がいた。それを見て、声を上げて泣いた。彼とはまた元通りになった。

※その彼は、その後ゲイに対して偏見があったかもしれないと、自身の記事で告白している。だからもう何とも思っていない。

 

ライングループで、僕は今回の手記がネット記事になることを告知しようと思っていた。でも、あまり前々から宣伝するのもポリシーに反する気がして、「よし、前日になったらさりげなく、さらっと告知をしよう!」と決めていた。そして、前日の夜に告知をした。しかし、その数分後、ある人物が被せるようにして自分のイベントの宣伝をし始めて、一気に話題をさらわれてしまった。僕はパニックになった。

 

僕の話題に触れた上での便乗ならまだ分かる。でも、まったく触れずに、鮮やかにスルーされた。僕の怒りが頂点に達した。

 

それほどまでの感情に至ったのには、実はもう一つ理由がある。それは四月に別件でLGBTに関する取材を受けた際、今回と同じくライングループで告知をしたときのことだった。やはりその人物は僕の話題に一切触れず、自分の話題を突然投げ込んできたのである。

 

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この前後も僕の記事の話がずっと続いていたんだけれど、彼が口を挟んだのはこの二言だけであった。僕はこのときも強烈な違和感を感じていたんだけれど、特に何も言わずにスルーをした。

 

なので、今回は我慢ができなかった。

 

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この文章を送信した直後、僕はこのライングループを退会した。

 

この一連のやり取りを、ブログ仲間のある人に相談していた。

「確かに前回のLGBTの記事のときは、突然割り込んできて不自然だった。ただ、今回は〇〇さんはたぬ吉さんの宣伝に便乗しただけで、何も考えていないのかもしれないね」

彼はなだめるようにこんなことを言ってくれた。しかし、最後の「女の子同盟」という訳の分からない文章が解せないのと、もし本当に悪気がなかったのであれば「写真展お待ちしてます」なんて、僕の気持ちを逆撫でするようなことは言わないのではないかとも思った。

※ちなみに画像の送信を5回取り消した〇〇さん、送信先を間違えたのでしょうが、今回の揉め事のスクショだったことはバレています。

 

もしかしたら、僕の勘違いだったのかもしれない。そんな考えも頭をよぎったけど、しかしながら僕の中の直感は、彼を「黒」だと告げている。モヤモヤしながらも、僕は生活保護の手記の反応をウォッチしながら、何とか忘れようと努力していた。

 

夜になって、裏アカから〇〇のツイッターを覗きにいってみた。そこで目にしたのはこんなツイートだった。

 

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「晒したい」

「香ばしい」

もう、誰のことを言っているのかは一目瞭然である。僕はやはり、自分の直感が正しかったことを確信した。

 

僕の中で、〇意のようなものが芽生えた。

晒される前に、こちらが機先を制するのだ。

そして、大慌てでこの記事を書き始めた。

 

相方に相談したところ、「やっぱり最後の『女の子同盟』は図星というか、たぬちゃんのことをとてもバカにしているように見える」と言ってくれた。

 

僕のことが気に食わなかったのか、嫉妬なのかは分からない。いずれにしても、僕にはどうしても、わざとこちらの記事を無視して、ぶつけるように自分の宣伝をしてきたようにしか思えないのだ。「悪気はなかったです」がまかり通る、ギリギリのラインを狙って発言してるようにしか見えないのだ。

策士である。

そして僕は、その日に起こったHagexさんの事件と今の僕の感情を並べてみると、はからずもリンクしていることに気が付いてしまったのだった。


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〇〇さんに純粋に聞きたい。今回の件について、あなたの一連の発言が本当に何の意図もなかったのかどうか。

 

そして、上のツイートを今すぐ削除して下さい。明日確認しにいきます。

 

そうでないと、僕の心が殺されてしまうから。

 

(amazarashi「ナモナキヒト」2012年)

 

※追記

コメントの募集はこの辺りで一旦区切らせていただきます。たくさんの書き込みありがとうございました。

amazarashi Live Tour 2018「地方都市のメメント・モリ」

おととい中野サンプラザにておこなわれたツアーファイナルに、お世話になっている友人と二人で行ってきました。実は僕らにとって今回のamazarashiが初参戦のライブだった訳なんですが、噂に聞いていた通り、秋田氏の美しい歌声とタイポグラフィに終始圧倒されっぱなしの2時間でした。せっかくなので、興奮冷めやらぬうちにライブレポートを書いてみたいと思います。


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【セットリスト】

1.ワードプロセッサ

2.空洞空洞

3.フィロソフィー

4.この街で生きている

5.たられば

6.月曜日

7.リタ

8.バケモノ

9.ムカデ

10.冬が来る前に

11.ハルキオンザロード

12.ラブソング

13.空に歌えば

14.水槽

15.ぼくら対せかい

16.多数決

17.命にふさわしい

18.悲しみ一つも残さないで

19.スターライト

 

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まず今回のツアーですが、タイトルにある通り、昨年末にリリースされた「地方都市のメメント・モリ」というアルバムの楽曲がメインで構成されています。このアルバムを一番最初に聴いたとき、全体的に「時間の概念」をとても丁寧に描写しているなぁという印象を受けました。ちなみに僕はこのアルバムの中だと「ハルキオンザロード」と「バケモノ」が特に気に入っています。


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1.ワードプロセッサ

この曲はいわゆる“ポエトリーリーディング”と呼ばれる、歌詞を朗読する形式の楽曲になっています。

 

生きるか死ぬかにおいて 

終わりを逆算、サバービアのメメント・モリ

シャッター街の路地  郊外の鉄橋 

背後霊が常に見張っている

 

タイトルの「メメント・モリ」自体が死生観を表す言葉であるように、秋田氏は常に「終わりを逆算」しながら日々を生きているのかもしれません。そう思わされるほどの気迫が、ライブの生の声を通じてひしひしと伝わってきました。自分にはこれ以外生きる術を持たないんだという覚悟のようなものが感じられて、その力強さに一曲目から感動してしまいました。

 

秋田「地方都市のメメント・モリツアーファイナル、中野サンプラザ!青森から来ました、amazarashiです!!」

 

4.この街で生きている

「空洞空洞」「フィロソフィー」とアルバムの曲順通りに演奏が続いたあと、秋田氏はMCで「あなたが暮らす街は、どんな街ですか」と問いかけます。そしてとある街のノスタルジックな映像が断片的に映し出されると、情緒的なメロディーラインと共に会場の雰囲気は一転。「この街で生きている」は、amazarashiの中でも比較的ポジティブな歌詞になっているため、ライブ中の箸休め的な楽曲と言えるかもしれません。

 

春夏秋冬 変わっていく街の景色

その中で抗ってる 君も 僕も

希望 誹謗 理想 自嘲 戦ってる相手は

疑う心だ つまり自分だ 

 

希望を誹謗するのも自分、理想を自嘲するのも自分。夢と現実の距離に煩悶しながら「それでも」と立ち上がる自分を、街は否定も肯定もせず、拒絶もしない。そんな漠とした街の優しさが歌われていて、あらためてスケールの大きい曲だなぁと思いました。

 

(amazarashi「この街で生きている」2011年)

 

8.バケモノ

紗幕には歌詞の通り、影の少女がさらにその影のバケモノへ次々と嘘を与え、肥大していく映像が流れます。それはまるで「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシを彷彿とさせるような描写で、背中から生えるいびつな腕のグロテスクさに鳥肌が止まりませんでした。


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もの欲しそうな表情浮かべ

次第に肥大するその体躯

次の嘘をもっともっととせがむもんだから

そうか 僕の嘘を一つあげようか

 

歌詞の最後は「自分自身とバケモノは表裏一体である」と結んでいるのですが、これはつまるところ、嘘は本質的に人間の欲望そのものという意味なのでしょうか。それは他人に対しての嘘なのか、自分自身に対しての嘘なのか、また、嘘をつく理由は何なのか。誰もがその実像と影の狭間で揺れながら、正体不明のバケモノと戦っているのかもしれません。

 

9.ムカデ

実はこの曲を聴くのは今回が初めてでした。

新曲かと思って調べてみると、どうやらインディーズ時代にリリースした「0.6」というアルバムに収録されているそうですね。メジャーデビュー以降のアルバムはほとんど持っているのですが、完全に勉強不足でした。


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逃げ場なく息も絶え絶えな ムカデ

涙 の濁流を這って 何処へ 行こう 何処も 駄目だ

居場所 が無い 神様僕は分かってしまった

空っぽの夜空が綺麗 あの黒い空白に埋もれてしまえたらって

願う そうか もしかしたら 僕は 死にたいのかな

 

歌詞に羅列されているのは、今までに感じたことがないくらい圧倒的にリアルな希死念慮。空を「黒い空白」と喩える言葉のセンスには特に脱帽で、やられたな、という感じでした。実際に絶望の洪水に喘いだ者でないと紡げないような強烈な失意に、あぁ、きっと僕はこの曲を聴くために今日のライブへ来たんだと確信しました。

 

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11.ハルキオンザロード

この曲のサビを聴いて真っ先に思い浮かべたのが、銀河鉄道999のような夜汽車で行く旅の情景でした。

 

生きるという名前の列車に乗って

時間の後ろ姿、追い越した

相席をした彼の名は悲しみ

それを知ったのはもうずっと後 

夜を散らかし 夏を散らかし

それを露骨に照らす夜明け

 

この歌詞にあるような感情や概念の擬人化は、十八番と言っていいくらいamazarashiの楽曲ではよく使われている表現方法です。時間を追い越してしまった「生きる」という名前の列車は、悲しみと相席をした僕らを乗せたまま、一体何処へ向かうのでしょうか。

 

15.ぼくら対せかい


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この曲にはアルバムのコンセプトにもなっている「地方都市」のさびれた情景がリアルに描かれているのですが、同時に中盤部分では、やはり時間の概念を擬人化したこんな一節が出てきます。

 

何かを置き去りにしてしまった気がするんだよ

でもそれが何なのかはもう忘れた

もしくは何かに置き去りにされたのかもしれない

いつもせっかちで何かの使命みたいに

先を急ぐ彼女の名前はたしか「時間」

後ろ姿さえもう見えない

その微笑さえ思い出せない

 

現れたと思えばすぐに消えていく今、現在、この瞬間。置き去りにしたのか、されたのか。迷いながらもそれらの時間を「先を急ぐ彼女」と喩えてしまう美的センスには、畏敬の念を禁じ得ません。ドラえもんのタイムマシンや、時をかける少女タイムリープなど、フィクションの世界では時間の往来を可能にした描写が数多く出てきます。誰しも「あの時こうしていたら……」と、今と違う未来を想像することがあると思いますが、人生は絶対に後戻りすることが出来ないからこそ、美しく価値があるのではないでしょうか。

 

19.スターライト

秋田「ありがとうございます!最後の曲です!11年前、さびれた地方都市で、この曲からamazarashiは始まりました!!」

 

僕がamazarashiを知ったのは2010年頃のことです。「夏を待っていました」という曲をカラオケでよく歌っていたんですが、当時はまだCDを全て買い揃えるほどのファンではありませんでした。それからしばらくして相方と出会い、自分自身を内省する機会が増え出した2014年頃から再び気になり始め、意外にもこの「スターライト」から本格的にamazarashiにのめり込むようになりました。

 

正直どのフレーズをピックアップしたらいいのか分からないほど完成度の高い曲で、人に言葉で説明しようとすると「まずは聴いてみて」としか言うことが出来ません。そのくらい幻想的で救いのある、物語性の強い楽曲なのです。

 

www.amazarashi.com

 

終わりがどこにあるかなんて 

考えるのはもう止めた

つまり 言い換えれば全部が僕次第

屑みたいなゴミみたいな 

小さな僕だって光るから

見つけてほしいんだよ この声を 

今すぐ空に投げるよ

夜の向こうで誰かが待ってて 

それを見つけて スターライト

愛だ恋だってわからないけど

僕らは一人では駄目だ

愛する人は守れカムパネルラ 

弱気は捨てろ スターライト

きっと悪いことばかりじゃないよ

隣にあなたがいるなら

 

(amazarashi「スターライト」2014年)

 

そして歌い終わると、彼は最後にこう言いました。

 

秋田「この夜の向こうに答えはあるのか。

限られた時間のなか、この旅路は距離にして1万1,000キロメートル、時間にしたら11年分、費やした言葉は1万1,837文字。

死にたい夜を越えて、今ここに立っています。

君は続く、人生は続く。
このツアーが終われば、わいもあなたも、また日々の暮らしに戻ります。

その日常に埋没しそうな時、今日の言葉たちが輝きをもって、なにかしらの閃きになったら。これ以上の幸いはありません」

秋田「またこの街で、もしくはこの世界のどこかで、必ず生きて会いましょう。言いたいことはこれで全部、amazarashiのライブは終了です。だけど最後にひとつだけ。ありがとうございました!!」

 

amazarashiは会いたくて震えたり、翼を広げたり、魔法にかかったり、スターライトでパレードをするようなことはありません。決して本人が前に出て宣伝することもなく、覆面でのスタイルを貫きながら、地道に、しかし着実に、口コミだけで支持を広げてきたバンドです。そして彼の語彙力、表現力、言葉の重み、歌詞のリアリティ、どれを取っても他のアーティストとは一線を画しているものと確信しています。だから、どうかこれからも変わらず、自分のような日影に生きる人間の代弁者であってほしいと強く願います。

 

11月の武道館で再び生きて彼らに会えるのを、今から楽しみにしています。


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震災で浮かび上がる仮想現実

東日本大震災で都心の交通網が完全に遮断されたとき、「予想外に繁盛したのが自転車屋さんだった」という話を知人から聞いたことがある。彼曰く、地震発生から二時間後に新宿区内で自転車を買おうとしたところ、すでに店先には大行列ができており、安価なママチャリなどは売り切れ状態だったそうだ。五時間ほど歩いて帰ったというから、まさに風が吹けば桶屋が何とやらである。

 

戦争で武器屋が儲かるのと同様に、“未曾有”の震災で真っ先に儲かる業界と言えば建築関係である。多くの建物が倒壊するのだから当然と言えば当然なんだけど、東日本大震災に関しては一つ奇妙なデータが存在する。少々眉唾な話ではあるけれど、それは震災の1ヶ月前から東日本ハウスという建設会社の株価が不自然に上昇していたというものだ。


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そこで都市伝説として噂されていたのが人工地震だ。この仮説を裏付けるデータが他にも複数存在するとかしないとかで、当時はこうした証拠を面白半分にネットで調べていたんだけれど、結局何が真実なのかは分からなかった。ただ、震災の前後で比較してみると、自分の中である意識が劇的に変化している。それはいわゆる情報リテラシーと呼ばれるもので、端的に言うと常識を穿つ視点を手に入れたのだ。福島の原発事故による放射能汚染の情報然り、メディアが流布する情報は鵜呑みにできないということを身を持って学んだのである。

 

昨日の大阪の地震が人工地震だったと言いたいわけではない。しかし世の中には、誰もが常識と思い込んでいるものが、 実は誰かの創作であるとする説が余多存在しているのだ。

 

例えばHIVウイルスは、研究者ですらその正体を肉眼で確認した者はいないと言われている。血中のタンパク質をスクリーニングテストという方法で調べるのだが、実際そのテストにおいては世界各国の検査規格が統一されておらず、「日本の検査で陽性だった人がカナダでは陰性だった」なんていう冗談みたいな話が本当にあるのだそうだ。それというのも、そもそも一部の黒人が生まれながらにして持つ遺伝子自体がHIVとされているのであって、ウイルスとしては存在しないのだとある学者は話していた。本当はエイズを発症して亡くなるのではなく、その治療薬で殺されているのだとも。

突き詰めると、HIVは黒人とゲイを狙った製薬会社によるジェノサイドだという仮説が成り立つのである。

 

世の中を冷静に疑ってみると、ディストピア小説顔負けの仮想現実が輪郭として浮かび上がることがある。新型インフルエンザの流行も、薬を売りたいがための製薬会社の自作自演かもしれないし、PCのウイルスも、ウイルスソフトの製作会社が対策ソフトを売りたいがための自作自演かもしれないのだ。

 

これらはあくまで「仮説」である。

 

 

 

 一番正気なものが

 一番滑稽な事もある

 一番正しいものが

 ひょっとして一番悪かも

 見過ごした些細なものに

 寝首をかかれる事もある

 「安心しろ」と言う奴に

 背中を見せてはいけない

(amazarashi「デスゲーム」2011年)