聞き屋のたぬ吉

相席をした彼の名は悲しみ

ずぶ濡れで、走っていけるか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今の時代は、皆が「生きていること」に対してあらゆる意味を持たせ、付加価値を与え過ぎるが故に生き辛い。そもそも生きるのに理由はいらないし、生きる意味など罪人であろうがなかろうがいつだって等しく後付けである。

 

 

しかしながら「凶悪犯なのだからさっさと殺してしまえ」というのは、いささか早計と言わざるを得ない。それは理由さえあれば人は人を殺す権利があると言う主張に他ならず、司法という笠を剥ぎ取れば、すなわち翻って、誰しも理由さえあれば殺し殺される運命なのだという自家撞着を起こすからだ。 

 

 

 

彼らの再犯から学ぶべきは「凶悪犯は服役しても更正しない」という手抜きの結論ではなく、身に付くのはその場限りの反省の技術だけという事実である。悲しいかな、懲役20年で得られるのは豊かな情操でも何でもなく、早々に出所するための単なる損得勘定なのである。疑うべきは罪人ではなく、現行の刑法や刑罰の仕組みそのもののように思う。

 

凶悪犯罪者こそ更生します (新潮新書)

凶悪犯罪者こそ更生します (新潮新書)

 

 

つまりは犯罪者に対して、ただひたすらに「反省」や「改心」を迫り、罰を与えるというシステム自体が間違っていると考えられないだろうか。彼らの更正が娑婆に出るための単なる「受験勉強」になっては、全くもって意味を成さない。そんなものはどうせすぐに忘れてしまうのだから。

 

よしんば死刑という報復が叶ったとて、被害者は戻ってこない。それで収束したように見えたとて、被害者遺族、及び社会全体を覆う正体不明の虚無感からはどうしたって逃れられない。もっとも加害者が真に必要とするのはアフェクションであり、根本的な解決は「許し」以外に存在しないように思う。

 

kawango.hatenablog.com

 

 

ただ、今の僕には氏の価値観を覆せるだけの文脈を持ち合わせていない。それに140文字の応酬でやり込めたとしても、結局片手落ちなのは変わらないため、以降は沈黙とした。

僕はまた繰り返してしまったのだ、現実世界での虚しい議論を。

 

 

犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。

(太宰治「斜陽」1947年)

 

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな。」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実態があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(太宰治人間失格」1948年)

 

何かの足しにもなれずに生きて    何にもなれずに消えていく

僕がいることを喜ぶ人が    どこかにいてほしい

石よ樹よ水よ    ささやかな者たちよ

僕と生きてくれ

繰り返す哀しみを    照らす灯をかざせ

君にも僕にも    すべての人にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ

名もなき君にも    名もなき僕にも

(中島みゆき「命の別名」1998年)

 

不健康な心が飢えて    悲劇をもっとと叫んでいる

大義名分が出来た他人が    やましさもなく断罪する

人殺しと誰かの不倫と    宗教と流行の店と

いじめと夜9時のドラマと    戦争とヒットチャートと

(amazarashi「つじつま合わせに生まれた僕等」2009年)

 

失くした何かの埋め合わせを    探してばかりいるけど

そうじゃなく    喪失も正解と言えるような

逆転劇を期待してる    そしてそれは決して不可能じゃない

途絶えた足跡も    旅路と呼べ

(amazarashi「命にふさわしい」2017年)

 

「止まない雨はない」「明けない夜はない」

とか言って明日に希望を託すのはやめた

土砂降りの雨の中    ずぶ濡れで走っていけるか?

今日も土砂降り

そういや    いつかもこんな雨だった

(amazarashi「雨男」2014年)

 

 

もっとしっかりと沈黙しよう。

僕の言葉の死に場所は、ここじゃない。

 

土砂降りの雨の中

ずぶ濡れで、走っていけるか

ELLEGARDEN 「THE BOYS ARE BACK IN TOWN」TOUR 2018に見る異性愛の圧倒的優位性と閉塞感

おととい8日、新木場STUDIO COASTでおこなわれたELLEGARDENの十年ぶりの復活ライブに足を運んだ。

 

記念すべき復活とは言え、自分にとって彼らのライブはこれが初参戦であり、軽々しく「お帰り」なんて言えるようなコアなファンではまったくない。それ故にライブレポートと言うのも憚られるくらい些末な内容になることは予め断っておきたい。


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あえて言及するまでもないが、僕が今回当選したのは抽選倍率が一部で900倍ともささやかれるほどのプラチナチケットであった。そのため当日は台風が接近しているにも関わらず、ライブ会場へ続く沿道には惜しくも抽選に漏れてしまった「同行希望」の人たちが大挙して押し寄せていた。

 

m.huffingtonpost.jp

 

本当かどうか知らないけれど、「徳島から来ました」など、西の県名が書かれたボードを持つ人を見かけてしまい、反射的にどうにも胸が痛む。

他にもパフォーマンスなのか、傘もささず雨晒しで「どうか同行させてください!お願いします!!!」とずぶ濡れで叫ぶ男の人もいたりして、ここまで来るとこちらもあまりジロジロ見ないようにする以外方法がない。他の人もそうだったのか、チケット保有者たちは皆一様に伏し目がちとなり、葬列のごとく粛々と会場へ向かう光景のおかしさと言ったらなかった。

 

彼らの熱い気持ちを無駄にしないためにも、このライブで自分なりに「大切な何か」を感じ取って持ち帰ろうと思った。

 

*   *

 

ELLEGARDENが全盛期の頃、僕の年齢は二十歳前後と無敵に若く、世の中のことなどまだ何も知らない幼気な青年であった。

あるゲイの掲示板(2006年頃はまだ掲示板での出会いが主流だった)で知り合ったY君がエルレの大ファンで、彼に片想いをしていたことが影響し、自ずと彼らの楽曲を聴くようになっていたのだった。

 

最初に買ったアルバムは「RIOT ON THE GRILL」で、それを初めて耳にしたとき、純粋にカッコイイなと思ったのを今でも覚えている。

彼らの紡ぎ出す四重奏には、通常多くの人々が経験しているであろう「青春」“とやら”が多分に詰め込まれている。その無骨で青臭い歌詞と王道のロックサウンドとが相まって、当時10代20代だった若者を中心に絶大な支持を集めていたのだった。


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そして活動休止から十年の時を経た現在、ファンもメンバーも気付けば互いに同じだけ歳を取っていた。

 

*   *

 

自分たちは奇跡的にチケットの整理番号が二桁だったため、2階席のほぼ中央最前列に座ってライブを観ることができた。1階の最前列に行くことも出来たけれど、体力的に厳しいので遠慮させてもらった。

 

開場直後、16:50頃の様子
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開演20分前には超満員に
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予定時刻が10分ほど過ぎた頃、突如照明が暗転すると同時に観客の熱気は最高潮に達した。そして暗闇の中ストロボのように高速で明滅する無数のライトを背に、勢いよくONE OK ROCKのステージが始まった。

 

ボーカルTakaの伸びやかで力強いシャウトは楽器のようで、聴いているうちにぞくぞくと鳥肌が立ってくる。

かろうじで「完全感覚Dreamer」だけは知っていたけれど、その他の曲は一切分からなかった。

 

ワンオクの演奏が終わると、25分ほど機材チェンジの時間を挟んだ。その後に再び暗転し、高揚感のあるSEと共にステージ背後にせり上がってきたのは、禍々しいドクロのイラストとバンド名が描かれたフラッグだった。やがて次の瞬間、ついにELLEGARDENのメンバー四人が姿を現した。


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Supernovaから始まり、Pizza Manと続くと、早くも中央の柵の前ではモッシュが発生し、ダイブしながらステージ前方まで転げる男の子たちも続出。無邪気な彼らを見つめながら、自分もあんなことが出来たらさぞかし気持ちがいいんだろうなぁと思った。

 

MCで細美氏は十年ぶりのライブの手応えを「溜めに溜めたオ○ニーのような感覚」と言い放ち、場内の笑いを誘った。万感こもごもあったにも関わらず、テンションが上がり過ぎてしゃべる内容がすべて飛んでしまったのだという。その飾り気のないトークから彼らの温厚な性格がにじみ出ていて、好感度が上がった。

 

「この十年、いーろいろあったんだよ。でも一つだけ言えるのは、その分、強くなったってこと。」

 

僕は彼らが活動を休止した詳しい理由を知らない。

復活するに至った経緯について、そのいろいろを細美氏はMCの中で語ろうとはしなかった。オープニングアクトを務めたONE OK ROCKとの出会いも紆余曲折の物語があるようで、それも含めていつか話せるときが来ればいいと、希望的観測をこぼすに留まった。

 

と、ここまでは良かったのだが、ふいに細美氏が「みんなはこの十年でどんなことがあった?」と問いかけると、ステージ向かって左前方にいた男の子が「結婚して子供が生まれた!!」と、お誂え向きとも言えるような模範解答を叫んだ。「そりゃめでてぇなぁ!」みたいなことを返して場内は拍手に包まれたのだが、ここで僕はすでにアウェイ感が半端なく、みんなと一緒になって手を叩くことが出来なかった。

 

*   *

 

二度目のMC明けだったろうか。正確なセットリストは忘れたけれど、ライブ中盤にはその昔僕が一番好きだった「Missing」が演奏された。それと同時に僕の左前に立っていた男の子がタオルで目もとを覆い、静かに肩を震わせているのが見えた。その純粋さが、何だか無性に羨ましかった。

 

(ELLEGARDEN「Missing」2005年)

 

あの火花みたいに 誠実なら 
迷う理由も見つかるのに 
足りない記憶 僕らの唄 口ずさめば 

重なって 少し楽になって 
見つかっては ここに逃げ込んで 
笑ったこと 思い出して 
We're Missing We're Missing 
We're Missing 

 

サビの部分は、アルバムを聴いていた当事の僕の様子をそのまま表していた。

真面目な話、当時はY君との体の関係に溺れていたため、読んで字の如く「重なった瞬間少し楽になって、逃げ込んでいた」のだ。今振り返ると、その麻薬のようなまぐわいは欲しがるほど取り返しのつかない領域に追い込まれ、ある種の中毒症状に陥っていたのかもしれない。

 

あれは片想いなどというヌルい感情ではなかった。

あの感情は、底なしの承認欲求と粘着質でドロドロの性欲と「愛されたい」というエゴイズムが綯い交ぜになり、皮膚一枚焼け落ちてしまったようなただれた粘膜そのものだった。そしてその傷口をひたすらタイプの男の人にえぐってもらうことで、生きている実感を得ようとしていた。

 

何の疑いもなくエルレを聴けていたあの頃、僕は若かった。きれいな思い出話の一つでもあれば救われたのだろうが、僕はずっと痛かった。痛かったはずなのに、どこが痛むのかが分からなかった。あの頃、僕は無自覚で、最高に自由だった。

 

ライブに行こうと思ったのは、当時の感傷に浸りたかったからではない。なぜ彼らの歌のような「青春」が僕自身に訪れなかったのか、その理由を今こそ確かめたかったのかもしれない。そして出来ることなら追体験したいと、そう願っていたようにも思う。

 

*   *

 

ある人物の言葉を借りるとすれば、結婚して子供を生むことは生産性があるのだろう。事実人類は太古からそのようにして受け継がれてきた訳で、そうした生き死にの循環を作り出しているという点で、彼らは讃えられるべきなのかもしれない。

 

ただ、そうした圧がマイノリティを息苦しくさせていることもまた事実である。

 

エルレのライブに来ていたファンを観察してみると、やはり見た目も含めて居酒屋でバイトしていそうな元気な人たちが多く、amazarashiのライブに来ていた人たちとはまったく違っていた。

それがいいとか悪いとか言いたい訳じゃないのだが、きっと彼らの多くは学生時代、クラスの中で中心的な存在感を放っていた、あの比較的派手で活発なリア充グループに所属していた人たちなのだと思う。本当のところは分からないけれど、僕には彼らが友情や恋愛、家族愛といった磐石なものをしっかりとその手に握りしめているようにも見えた。

 

「俺バカだから、たかがバンドみてーなことしか出来ねーけど。」と、細美氏は言う。

 

ELLEGARDENがマイノリティを無視している、ということではないが、どちらかと言うと彼らの楽曲はマジョリティの感情に寄り添ったものが多い。そして彼らマジョリティが異性愛者として恋愛、結婚してくれないと、世の中が回っていかないのもまた事実である。

それに「バカ」であることは、ある意味で男性そのものの存在の証明でもあるように思う。それはゲイで言うところの「ノンケっぽさ」という価値観にも集約されていく。

 

作家の村上龍は、あるエッセイの中で「この時代に元気でいられる人たちというのは、権力者かバカのどちらかだ。」と綴った。恐らくこの表現の意図は、メンヘラ側から見た一般人に対する皮肉である。

 

しかしマジョリティ側もそれなりの苦労は抱えている訳で、むしろこの閉塞感で満たされた時代にバカでいられるということは、簡単なようで実はもっとも難しいことなのではないだろうか。

 

gendai.ismedia.jp

 

そしてバカでいるということがいわゆる「男らしさ」の正体なのだろうとも思う。日傘男子が流行らないのも、男子トイレの清掃に女性が入って問題ないのも、「細かいことにこだわる男はカッコ悪い」という不文律からくるものなのだろう。

 

 

 

 

多数派の人たちは各々が恩恵を受けていることを知ってか知らずか、今よりもっと居心地のいい社会を作れるはずだと信じてやまない。男が悪い、女が悪いと罵り合いながらセックスをし、結婚して子を作り、社会という巨大なパズルのピースとなり、その退屈さと引き換えに、何かの責務を果たしたような「普通」という称号を与えられるのだ。

 

もちろんそれとて、容易いことではない。

 

いつか僕ら少数派の絶望を食い物にしたリア充への恨みなのか、「Marry me」を演奏する頃にはすっかり興ざめしてしまい、アンコールなどを待たずして退場してしまった。そして出口付近にはせめて音漏れだけでも拾おうと集まったファンで埋め尽くされていた。

 

こんな貴重なライブを途中退場するような人間は皆無なのだろう、そのファンの人たちから一斉に話しかけられてしまった。

 

「えっ、帰っちゃうんですか!?」

「もうアンコール終わったんですか!?」

「今どの曲演奏してますか!?」

 

その純粋さが痛かった。

しどろもどろになりながら、逃げるようにして会場を後にしたのだった。

 

*   *

 

着地点が分からなくなってしまったが、一つ言えるのは、少なくともこの10年間でELLEGARDENは僕が聴くべき音楽ではなくなってしまったということだ。そのことが今回のライブで鮮明になってしまった、ただそれだけのことだ。

 

本当はもっと書きたいことがあったけど、これ以上はやめておく。生産性云々の件も少し触れてしまったけれど、今後そういった内容の話はあまりブログでは扱わないことにする。前にも書いたとおり、今の僕が抱え込んでいる闇は、すべて小説で表現していきたいのだ。

 

純粋なELLEGARDENのファンの人がこの記事を読んでいたとしたら、相当にモヤモヤしてしまうかもしれない。でも、中にはこういうことを感じていた人間があの場にいたという事実を知ってもらえればと思う。

 

彼らの今後の活躍を、陰ながら祈っている。

【酷評】映画『未来のミライ』に抱く一抹の違和感

夏の暑さも手伝って、只今絶賛引きこもり中である。

暑さ云々以前に、今の生活環境では時間が腐るほどあるので、先週あたりまで家と図書館を往復するだけの日々が続いていた。本が大量に置いてある上に涼しくて、しかもすごく静かで快適とあって、僕にとっては楽園のような場所だった。

ただ、日がな一日無心で読書をしていても、インプット出来る総量には限界があることを知った。こうも連日貪るように活字に触れていると、まるで使いすぎたスマホ通信制限がかかるように、脳内の情報処理能力が急に下がることがあるのだ。文章のゲシュタルト崩壊とでも言えるだろうか。

 

近頃は文章の世界だけでなく、映画という映像表現の世界にも少しずつ興味を持ち始めている。それというのも、読書とは別の形で没頭できる何かを探すようになっていたのだ。

没頭できる何かと言っても、ただいたずらに時間を消費するものではなく、触れることで自分自身がアップデートされるようなものを望んでいた。そういう意味で映画は会話のネタとしても無難だし、内容の様々を分析しながらレビューを書くことも出来るから、僕のような人間には最適な娯楽なのかもしれない。

 

そんなわけで、昨日は細田守監督の最新作『未来のミライ』をレイトショーで観に行ってきた。


 

大前提として、僕は映画に関する知識をほとんど持ち合わせていない。それに、そもそも今まで映画を観るとき、監督が誰だとか、原作がどうだとか、そういったものを気にしたことが一切ない。だから『時をかける少女』も『サマーウォーズ』も『バケモノの子』も、いずれもスクリーンで観ているけれど、同じ監督の作品であるという視点には感心がなかった。

 

加えて映画を観る前は、極力余計な情報を入れないように意識している。そして観終わったあとも、その作品に対してある程度自分の見解がまとまるまでは他人のレビューなども覗かないようにしている。それゆえ、今回書く内容は完全に映画ド素人のひとりごとなので、その点はご容赦願いたい。


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結論から言うと、まったく面白くなかった。

彼の作品が好きな人には申し訳ないのだが、個人的に本作に関しては面白くないというより、何一つ印象に残らなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

 

映画というのは往々にして、作り手から観客に向けた『メッセージ』が必ずどこかに潜んでいたりするものである。しかしこの作品に関しては、劇中にそういったメッセージ性を垣間見ることはなかった。いや、もしかするとあったのかもしれないが、それが一体何なのか、僕にはさっぱり分からなかった。

 

例えば一昨年夏に公開された新海誠監督の『君の名は』も、個人的にはひどくメッセージ性のない内容であったと記憶している。ただ、あの作品には『音楽』や『映像美』といった、ストーリーと切り離した部分での評価対象が存在し、それなりに『映画を観た気分』に浸ることは可能であった。

 

それに対し、本作はどうだろうか。

残念ながら、僕にはそういった付加価値的なものすらも一切見出だすことが出来なかった。 

 

ここからは少々ネタバレになる。

主人公のくんちゃんが母親を求めて泣き叫んだり、過去にさかのぼって当時の家族と出会ったり、感情に揺さぶりをかけてくるシーンはいくつかあるにはあった。しかし、通常映画を観終わったあとに訪れるはずの独特の『余韻がまったくないのである。それどころか、何かこうモヤッとした一抹の違和感だけが残ってしまったのだ。

この違和感の正体は一体何なのだろうと、一人自室で考えを巡らせたところ、時間の経過と共にその理由がハッキリと浮かび上がってきた。

 

まず第一に、そもそもこの「未来のミライ」というタイトル自体が、映画の内容そのものとマッチしていないように感じた。実も蓋もないことを言っているのはもちろん承知である。

じゃあなぜそう思うのかと問われれば、「ボクは未来に出会った」という惹句も含め、『未来』というワードを強調する割には、肝心の『未来』の描写がほとんどないことが理由として挙げられるだろう。それに未来からやって来たミライちゃんは断続的に登場するけれど、終始一貫して彼女と共に冒険をしているわけではないし、どちらかと言えば『過去』にさかのぼるシーンが頻出するという点でも矛盾している。

 

さらに僕が評価できなかった理由として、作品のコンセプトが毎回ワンパターンというか、過去作の焼き直し感が否めないという点である。北野ブルーよろしく“細田ブルー”とでも言うのだろうか、いずれも青空と入道雲があり、主人公が子供で、過去や未来、異世界や仮想空間などをひたすら往来するといった内容ばかりなのだ。


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先ほど監督が伝えたいメッセージが分からないと綴ったが、実は半分嘘で、それが何となく『家族愛』とか『家族の絆』的なものであることは予測できた。その上で評価できない理由をもう一つ挙げるとすると、(完全にただの僻みかもしれないが)単純に彼らの生活水準が高すぎるということだった。むしろそれがこの物語の興を削ぐ一番の要因となって、“メッセージの受け取りを拒否”していたのだと思う。

 

30歳前後の夫婦に子供が二人いて、庭付き一戸建ての(恐らく)持ち家且つデザイナーズ物件でマイカーも所有。室内にはたくさんのおもちゃとそれで遊ぶためのスペースがあり、さらにはMacのノートPCや見たこともないようなカラフルなケーキなど、出てくるアイテムもいちいちおしゃれで生活感がまったくない。こんな家族が一体どこの白金にいるというのだろうか。

 

つまりは生活感がないことで、返って物語が非常にちゃちなものに見えてしまい、家族の愛だの絆だのと言ったメッセージにまったく集中することができなかったのである。80年代後半のバブル期ならいざ知らず、これが現代の平均的な家族像を描いているつもりなら、相当感覚のズレがあるように思う。

 

仮にそれらの要素を差し引いたとしても、個人的にこの作品が評価に値するとは言い難い。なぜなら『宿題』が何も残されていないからだ。

 

前にどこかの記事でも触れたけど、僕は映画でも音楽でも、各々の中にしか答えがないような、深いところで意味を考えさせられるような『問い』のあるものに惹かれる傾向にある。そしてその問いを『宿題』として心の中に持ち帰り、今まで築き上げてきた価値観と照らし合わせながら、ゆっくりと答え合わせが出来るような作品と出会いたいのだ。

 

未来のミライ』が僕に投げかけたのは、宿題として心に持ち帰るまでもなく、スクリーンの中で答え合わせが済んでしまう非常に優しい問いであった。

細田守監督の最新作というだけで飛びついてしまったことに、今さらながら少し後悔を覚えている。

ドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』を見た当事者の感想

今週火曜日からフジテレビ系でスタートしたドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』、略してケンカツ。


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タイトルには日本国憲法の第二十五条の条文がそのまま引用されている。

 

〔第二十五条〕

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

上記から推測できる通り、このドラマは僕が今年の5月に利用を開始した生活保護から材を取った内容となっている。

しかしながら、放送当日は新宿で友人と呑気に水餃子をつついていて、うっかり見逃してしまっていた。

当事者としてどうしても見ておきたくて、動画を探したところ、幸いGYAOで無料試聴することが出来た。せっかくなので初回の感想をまとめてみようと思う。

※下記リンクより飛べるので、未視聴の方は是非。

 

gyao.yahoo.co.jp

 

*   *   *

 

・あらすじ

主人公の義経えみるは大の映画好きで、学生時代は映画監督を志し、サークル活動に没頭する日々を送っていた。しかしひょんなことから挫折を味わうと、その反動から「安定」を求めて就活に励んだ結果、晴れて公務員として採用が決定。そして東京都東区役所の生活課へ配属されると、110世帯もの生活保護利用者を担当するケースワーカーとなった。

 

担当部署の棚には、世帯ごとの内情を詳細に記録した大量のファイルが保管されていた。その一つ一つをやおら開いてみると、そこには一般的な家庭で「健全に」育った者にはにわかに信じ難い、ショッキングな内容が数多く見受けられるのだった。

 

覚醒剤取締法違反で逮捕、夫の暴力から逃げるように別居

・長年虐待を受けていたことによる自傷癖、心的外傷後ストレス障害

・電車内で下半身を露出し逮捕、保護停止

 

あまりの悲惨さに絶句していたのも束の間、彼女の真面目で優しい性格が仇となり、闇を抱えた利用者たちに次々とキリキリ舞いさせられてしまう。ついには「この仕事、向いてないんじゃないか……」と、一人思い悩むようになってしまうのだった。

 

・ケース1 利用者の自殺

業務開始早々、えみるの担当する平川という男がビルから飛び降り自殺をしてしまい、新人ケースワーカーとしてのっけから手痛い洗礼を浴びせられる。

彼が保護を申請するに至った経緯を調べてみると、帳簿にはこんな内容が記載されていた。

 

〔ケース記録〕

平成24年6月に主の妻が癌を患う。

平成27年8月末まで就労していたが、妻を在宅療養するため勤めていた会社を退職し、介護に専念するも平成28年6月に他界。

貯金も底をつき、平成28年9月保護申請に至る。

 

上司の半田とともに平川の“終の棲家”となってしまったアパートを訪れると、まず目に飛び込んできたのは、びっしりとふせんが貼られた無料の求人雑誌だった。

奥にある6畳の和室は小綺麗に整理されていて、机の上には奥さんとの仲睦まじいツーショット写真が飾られていた。そこで初めて平川の顔を見たえみりだったが、担当部署で自殺の一報を聞いた際、同僚がふと漏らした心ない一言が脳内でフラッシュバックする。

「自分が抱えてる1ケース減って、よかったじゃん」

 

(それを言ってしまうと、何か大切なものを失う気がする……。)

 

義憤に駆られるように、彼女は半田に向かってこう問いかけた。

「平川さん、努力してましたよね?生きようとしてましたよね?110ケースあろうが、国民のお金だろうが、生きようとしてましたよね!?」

ケースワーカーは命を守る仕事ですが、残念ながら守りきれないときもあります。」

「でも、私……」 

 

やりきれない現状に、まったく二の句が継げないといった表情で立ち尽くしているのだった。

 

・ケース2 債務整理

阿久沢という利用者と面談をした際、「1日1食しか摂っていない」と話していたことを不審に思い、えみるが一人で男性宅を訪問するシーン。

絵に描いたようなボロアパートで倹しく暮らす彼だったが、催告書なるものが冷蔵庫に貼ってあるのを目ざとく見つけられてしまい、ついに消費者金融から多額の借入れをしていることを告白する。

「借金があると、生活保護を貰えないと思って」

借金があっても問題ないことを説明すると、まずは法テラスという専門業者で債務整理をするよう促した。

 

しかしいくら待っても行動を起こさない阿久沢にしびれを切らし、日時を指定して再度役所を訪れるよう依頼するが、やはり約束の時間になっても現れる様子がない。携帯に電話をしてみると、役所の前まで来たが引き返してしまったとのことで、仕方なく彼の待つ公園へと向かった。

 

「私たちは阿久沢さんを助けたいんです。だから法テラスを勧めるんです。逃げないでください、ちゃんと訪ねてきてください。」

えみるの純粋な思いとは裏腹に、彼はバツの悪そうな顔でアイロニカルにこう洩らすのだった。

「娘でもおかしくない年齢のあなたに、家見られて冷蔵庫の中見られて借金のことも言われて、もう情けなくて恥ずかしくて。やっぱり私のこと見下してますよね、情けないと思ってますよね。」

彼女の年齢によるアウトサイダー性が、余計に彼のプライドを傷付けてしまっていたことを知り、それ以上無理強いすることが出来なくなってしまった。

 

(阿久沢さんの物語、ハッピーエンドに導くために、私はどうすればいいのだろう。)

 

そして再度「あなたのために本気で骨を折る覚悟だ」と体当たりするえみるに根負けして、阿久沢はついに行動を起こす決心をする。

フタを開けてみれば、その借金はとっくに完済されていて、150万円もの過払い金を請求できることが判明。これで彼の生活保護はめでたく廃止となったのだった。

 

・当事者としての感想

第1話のケース毎の印象として、生活保護という重めのテーマを扱っている割には、主人公のキャラクター設定一つ取ってもいい意味で取っつきやすく、比較的ライトにまとまっていたように思う。

特に当事者の呼称を一貫して「受給者」ではなく「利用者」としていたところには好感が持てたし、その利用者を過剰に擁護するでもなく、一般的なマイナスイメージについてもそれなりに触れられていて、公平性にしっかりと配慮している様子が感じられた。

 

しかし一方で気になったのが、保護費を借金の返済に回していたことがバレてしまったシーンである。実際に僕自身のケースと照らし合わせてみると、例えば八王子市では申請が通った場合、制度利用に関する諸々の注意事項が書かれた「生活保護のしおり」というものが配布され、事前に細かな説明を受けることになる。


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 (実際に役所から配布された「生活保護のしおり」)

 

保護費の取扱いについていくつか禁止事項があり、その中に「借金やその返済」がNGであることがしっかりと明記されているのである。


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ドラマの中では、途中ケースワーカーが阿久沢の借金返済についてやや諦めモードだったけれど、あのくだりは端的に言ってあり得ない。実際に保護費を借金返済に充てることは制度の運用上許されないので、最悪の場合、支給停止になってしまうくらいまずいことなのだ。

僕も相談時には90万円ほど借金があったため、担当のケースワーカーから法テラスでの債務整理を勧められた。ここなら一定の要件を満たしていると借金の法律相談などが無料なので、気軽に利用することが可能なのだ。


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(法テラスのパンフレットと、ケースワーカーさんが書いてくれたメモ用紙)

 

ドラマほど懇切丁寧ではないけれど、初回に僕を担当してくれた女性も非常に感じのいい方で、無知な自分にいろいろと分かりやすくアドバイスをしてくれた。実際にどこまで親身に寄り添ってくれるかは、正直担当になるケースワーカーによって大きく異なると思う。

現にこの直後、僕の担当の女性が産休のため、別の若い男性に引き継がれることになったのだけど、これが驚くほど相性が悪くて、残念ながら彼のことは今現在まったく信用出来ていない。顔を合わせるのが憂鬱なくらいウマが合わないのである。


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*   *

 

ドラマの全体的な感想としては、良く言えばバランスが取れていて無難だし、悪く言えばいかにも脚本という感じで、展開がきれいにまとまり過ぎている感はどうしても否めなかった。

きっと実際に生活保護を利用する人は(僕を含めて)もっとドロドロした複雑な事情を抱えているだろうし、えみるのような実直で世話焼きなケースワーカーや、半田のような人間的に出来た上司などは、現実にはそうそう見当たるものではないだろう。

 

次週は早くも「不正受給」について切り込むようなので、今後も引き続き目が離せない展開となりそうだ。

「後のものが先になり、先のものが後になるであろう」

僕が昔預けられていた児童擁護施設には、敷地内にキリスト教の小中学校が併設されていて、山の上にはプロテスタントの教会が建っていた。施設の職員のおよそ半数はクリスチャンで、毎週木曜の夜と日曜の午前中には施設内の子供と職員が全員集まり、教会で礼拝がおこなわれていた。


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礼拝では聖書を読み上げる時間があった。聖書のどの箇所を読み上げるのかは事前に決められていて、各部屋の子供たちが順番で担当するのだけど、中学校に上がって間もなくの頃、その朗読の当番が一度だけ自分に回ってきたことがあった。当日の礼拝で僕が担当したのは、マタイによる福音書の20章にある「ぶどう園の労働者」というお話だった。

 

 天の国は次のことに似ている。ある家の主人がぶどう園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。彼は一日一デナリの約束で、労働者をぶどう園に送った。九時ごろまた市場に行ってみると、何もせずに立っている人たちがいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう』と言った。そこでその人たちはぶどう園に行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。また五時ごろ出て行ってみると、他の人たちが立っていたので、『なぜ何もしないで、一日中ここに立っているのか』と言うと、彼らは、『だれも雇ってくれないからです』と答えた。そこで、主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園にいきなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に、『労働者たちを呼んで、最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい』と言った。そこで午後五時ごろの組の人たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。終わりに最初の組の人たちが来て、それより多くもらえるだろうと思っていたが、彼らも一デナリずつもらった。すると、主人に不平をもらして、『最後の組は一時間しか働かなかったのに、あなたは彼らを、一日じゅう労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じように扱われる』と言った。主人はそのうちの一人に答えて、『友よ、わたしはあなたに何も不正なことはしていない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。あなたの分を取って帰りなさい。わたしはこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ。わたしが自分のものを自分のしたいようにするのが、なぜいけないのか。それとも、わたしの気前のよさを、あなたはねたむのか』と言った。このように、後のものが先になり、先のものが後になるであろう

 

朝からぶどう園の主人に雇われた人は「1日1デナリ」という賃金契約を交わしていた。しかし、それ以降に主人が市場で声をかけた人々には「ふさわしい賃金を払う」とし、具体的な金額を明示しなかった。そして夕方5時ごろに声をかけた人々にいたっては、1時間ほどしか労働をしていないにも関わらず、最終的には朝から働いていた人々と同じ1デナリが支払われた。

 

ここでもっとも重要なのが、「最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい」という言葉だ。通常であれば、先にいた者から順に支払われ、労働時間に比例して、賃金も後に来た者ほど少なくなるはずである。しかしこのお話ではその順序がまったく逆になり、賃金も一律に支払われたため、先にいた者が納得せずに不平を漏らした格好だ。ちなみにここで言う「ぶどう園の主人」とは「神様」のことを指している。 

 

よく考えてみると、朝から労働契約を交わした人たちは、その日ないし翌日の生活は賃金により保証されている。それに対し、途中の時間から雇われた人たちは、その日の暮らしもどうなるか分からない状況で市場に来ていた。彼らは働く時間こそ短かったものの、その分「不安に晒されていた時間」は、朝から雇い入れてもらった人たちより当然長い。特に夕方の5時に雇われた人たちは、ほぼ絶望の中で立ちすくんでいたと言える。

 

つまり神様は、彼らの「絶望していた時間の長さ」を考慮して、後の者を先にしてくださったのだ。われわれの暮らす資本主義社会ではおよそありえない評価が、天の国では当然のこととしておこなわれるのである。

 

ちなみにキリスト教では死後の世界に関して「復活」や「永遠の命」という、仏教で言うところの輪廻転生とはまったく異なる概念が信じられている。これには生前に良い行いを積極的にしたかどうかということはあまり考慮されないし、早くから信仰していれば優遇されるといったものでもない。むしろ罪深い人ほど優先して救ってくださるという、独特の気前のよさを持ち合わせているのである。

 

さっき近所のスーパーで美味しそうな“ぶどう”を見かけたので、衝動的にこの話を書きたくなったのだった。

自分の言葉を探す旅

今朝、AIR-J'氏と神原さんの以下の記事を立て続けに読ませていただいた。

 

airj15.hatenablog.com

 

mituteru66.hatenablog.com

 

自分もちょうど昨日こんなツイートをしたばかりで、二人と似たようなことを思っていたのだった。

 

 

 

 

この際なので、僕も忌憚なく書かせてもらう。

 

世の中には『普通』とか『常識』の枠内にしっかり自分の居場所を確保しておきながら、それでいて他人より変わっているとか、不幸な境遇なのだという具合に、自分を個性的にパッケージしたがる人種が存在する。しかし彼らは基本的に人から嫌われたり、周囲から浮いてしまうリスクを冒してまで何かを主張するような気概はまったく持ち合わせていない。

 

そうした人間が『ガチのアウトロー』とうっかりエンカウントするとどうなるか。すぐに対抗意識こそ発露しないものの、彼らなりのやり方で背中に小石を投げてくるという構図はもはやお決まりのパターンで、そうした“柔らかい衝突”はこれまでも何度か経験している。

 

そして不幸自慢では勝てないと踏むと、踵を返すように、今度は自身が『その他大勢』であることにアイデンティティを見出だそうと奮起するのである。要するに、それまで周囲に比べていささか変わり者だったり、厭世的なキャラクターを売りにしていたため、自分より強烈な個性を持つ人間にお株を奪われることが面白くないのだろう。その当て付けとして、保険をかけておいた『普通』にすり寄り、相手との対称性を全面に押し出すことで溜飲を下げようとするのである。

 

今となっては某氏が某ブロググループを教えてくれたのも、某ライングループが立ち上がったのも、もしかすると『人数を従えている』ことを自慢したかっただけなのではないか?とさえ思ってしまう。それはまるで「自分はこんなすごいコミュニティを有しているんだぞ」と主張するかのように。

 

*   *   *

 

僕にはもうすぐ付き合って5年になる相方がいる。アプリで知り合っているということもあり、お互いの友人関係を紹介するでもなく、客観的にはとても閉じた世界で関わっているように見えるかもしれない。それ故に、互いに興味をなくしたら終わってしまうという、非常に危なっかしい関係であるという事実はあえて否定しない。

 

でも、だから何だと言うのだろう。

 

そんな綱渡りのような関係であったとしても、現に僕らは4年と8ヶ月という長い時間を共に歩いてきた。彼が偶然僕のことを赤いアプリで見つけてくれて、メッセージをくれて、二人でボウリングに行って、その1週間後に告白されてから、丸5年が経とうとしている。お互いそれなりに依存し合って、承認し合って、どうにかここまでやって来れたのだ。それは彼にゲイ友達がほとんどいなかったり、ツイッターをしていなかったり、ほぼノンケ生活をしているということが僕の安心に繋がっている側面もあった。

 

しかし、それでもふとした瞬間にやってくる『孤独』とは、自分自身で折り合いをつけなければならない。そういうとき、リアルの世界に活路を見出だすか、非リアルの世界に活路を見出だすかは、その人の性格によって異なってくる。このような場合にやたら人数を集めないと行動を起こせなかったり、群れることで孤独の穴埋めをしようとする人間は、私生活が派手か地味かに関わらず、根っこの部分では『パリピ』体質なのだと思う。『文化系パリピ』がタチが悪いのは、渋谷あたりにいそうなウェーイ系を心底馬鹿にしながら、その実やっていることは彼らと大して変わらないという滑稽さにある。

 

例えばBUMP OF CHICKENRADWIMPSは何かにつけて比較されることが多い。しかし彼らの決定的な違いは『ガチのオタク』か『ネクラぶっているリア充』かというところにあるのだと、ある友人が分析していた。有り体に言えば等身大のメッセージか、作り込んだ商業音楽かの違いである。

 

前々回の記事で某氏に噛みついた理由も実はそこで、彼のツイッターはそれなりに面白いのだけど、「あぁ、作っているな」と感じる面白エピソードを頻繁に呟くところに違和感があったのだ。これはもう虚言癖と言って差し支えないレベルで話を作り込んでいると感じていたので、見ていて恥ずかしいを通り越して、可哀想になってくるほどであった。ツイッターがさながら承認欲求の吹き溜まりと揶揄されてしまうのは、常習的にそういう使い方をしている人が一定数いるからなのだと思う。

 

*   *   

 

一昔前はネットと言っても使えるサービスは限られていたから、ネットとリアルの世界は別物という認識はあながち間違いではなかった。しかし2018年現在、もはやネットとリアルは地続きであるとさえ言える状況下で、『分けて考える』という発想自体が時代遅れではないだろうか。ワンマンな中小企業に限って社長室の壁に『温故知新』なんて額縁が飾ってあるように、懐古主義も行き過ぎれば単なる“老害”になりかねない。

 

この手の格言めいた空理空論は、書店で平積みされている安い自己啓発本にいくらでも落ちている。SNS断ちだの仮想通貨だのミニマリストだの、こうした無責任なワードは中身が空っぽな奴ほど響くのだ。良書に出会うコツは本をたくさん読むことではなく、何を“読まないか”である。豆知識は読書量に比例するかもしれないが、自分のポテンシャルを底上げしてくれるような本というのは、実はそんなに多く出回っていないものなのだ。

 

借り物の言葉で何かを言った気になるのは確かに楽ではあるけれど、文章とは推敲することに意味があるのだ。自分の考えを文章に起こすために、何度も何度も推敲して表現を絞るからこそ『自分の言葉』になるのである。だから僕自身は文章を書くことを止めないし、これからも表現力を磨く努力を続けていきたいと思っている。

 

余談だが、自分の言葉と言えば、昨日某ブロググループに童貞見聞録というブログを書いている方が新しく参加されているのを発見した。覗いたら文章がめちゃくちゃ上手くて、つい10記事ほど連続で読んでしまった。恐らくあのグループの中で一番読める文章だと思う。これから彼の更新が楽しみである。

 

*   *

 

最後に某氏に。

あまり受け売りで物事を語らないほうがいい。そして、できれば文章は書き続けたほうがいい。自分の言葉を探す旅は、君自身の成長に必ず繋がるはずだから。

 

 

 

何があんたの幸せとか 

正解と不正解の境界線だとか

結局決めるのはあんた自身で 

自分で自分の首を絞める事はないよ

(amazarashi「あんたへ」2013年)

映画『万引き家族』に息を飲む

水曜日の夕方、立川駅万引き家族を観た。

予告編を見た人であれば、この映画がハッピーエンドになるはずがないということは、もれなく予想していたに違いない。僕もはじめから「この家族がどのように崩壊するのか」という点に注目しながらスクリーンを見つめていた一人である。

 

 

物語は父親と息子らしき二人がスーパーで万引きをするシーンから始まる。戦利品を片手に帰路につく途中、あるアパートの前に座り込む少女に偶然出会うと、彼女をも“万引き”するかのように自宅へと連れ帰ってしまう。狭い長屋で身を寄せ合うように暮らしていたのは、一見すると父と母、姉、息子、祖母として認識できる、貧しくもそれなりの絆で結ばれた五人の『家族』であった。

 

いの一番に気になったのは、母と姉らしき二人の年齢がそう離れては見えないことだった。最初は連れ子同士の再婚かと思っていたのだが、息子・祥太が両親のことをお父さん、お母さんと一度も呼ばないことにも違和感を覚えた。そして物語が進むにつれ、彼らが血の繋がりのない『かりそめの家族』であることが次第に明らかになっていく。

 

全員で海へ出かけるシーン。

波打ち際で無邪気にはしゃぐ五人を、祖母・初枝が浜辺から穏やかに見つめていた。そのどこにでも転がっていそうな幸せの光景は悲しいほど刹那的で、分断の魔の手がすぐそこまで忍び寄っていることを予感させた。

 

翌朝、初枝は突然亡くなった。何の予兆もなく、苦しむこともなく、冷たい体になっていた。

「こーゆうのは順番なんだからさ」

妻・信代のにべない態度とは対照的に、唯一姉の亜紀だけが静かに涙を流していた。

初枝の年金目当てに同居していた夫・治は、死亡によってその支払いが止まることを恐れ、遺体を庭に埋めてしまおうと画策した。

「これは内緒だぞ、俺たちゃ家族だ」

おばあちゃんは最初からいなかった、自分たちは最初から五人家族であったのだと、子供たちに箝口令を敷いた。この辺りから、祥太の表情に少しずつ陰りが見え始める。

 

あまつさえ信代のパート先では従業員を一人クビにする必要があると告げられ、対象となった信代ともう一人の女性のどちらが退職するか、二人で話し合って決めるよう迫られる。すると彼女はこう言った。

「黙っててあげる。あたし、見ちゃったんだよね。事件の子と一緒に歩いてるの」

彼女に脅されていることに気付いた信代は、潔く身を引く覚悟を決め、口外しないよう念を押した。

「分かった。そのかわり、しゃべったら殺す」

 

彼女の口から誘拐の事実が漏れ伝わるのかと思いきや、最終的には祥太がスーパーでわざと見つかるように万引きをしてしまい、今までの悪事がすべて明るみになってしまった。これにより一家は解体へと追い込まれることとなるのだが、はじめから見えていた結末とはいえ、何とも無慈悲である。

 

そして警察の取り調べで待っていたのは、思わず耳を塞ぎたくなるような、怒濤の『正論』攻撃であった。世の中の正しさを眼前に突きつけられた彼らの行き場のない悲しみは、まるでロールシャッハの模様のように、僕の中の『正しさだけでは折り合いのつかない感情』と重なって、視界が滲んだ。

死体遺棄、重い罪ですよ?」
「捨てたんじゃない……捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは、他にいるんじゃないですか?」

 

捨てた人が、他にいた。

 

信代が伝えたかったのは、きっと初枝のことだけではなく、彼女を含めたこの家族全員がすでに誰かに捨てられていたということではないだろうか。僕はこの『捨てた人』とは、まぎれもなく『日本社会』のことを指しているのだろうと推測した。

 

正しさに打ちのめされ、それでも虫の息で訴える彼らの“三分の理”は、決して単なる開き直りなどではなかったはずだ。社会の底辺に生きる悲しみを、自分たちと社会との間で断絶されてしまった『何か』を語るには、あまりにも言葉が足りな過ぎたのだ。

 

犯罪は犯罪じゃないかと、この作品を無条件に批判できる人たちは、きっとあらゆる思考が停止してしまったリアリストなのだと思う。僕はそういう人たちを『心の冷たい人』と呼ばせてもらうことにする。

 

この映画は、現実世界だけでは幸せになれない弱者たちの姿を見事に描き切った、稀有な作品であると言えよう。

 

 

 

ねえママあなたの言うとおり

他人は蹴落として然るべきだ

幸福とは上位入賞の勲章

負けないように 逃げないように

目を覆い隠しても 悲鳴は聞かされて

耳を塞いでも 目をこじ開けられて

 

 (amazarashi「性善説」2013年)